【書評】新しい目の旅立ち(プラープダー・ユン)|汎神論とスピノザの哲学と自然に特別な意味を見出す思想

 「環境保護は重要である」

 私たちはこの考えを何の疑いもなく支持している。しかしその考えが実は、豊かな国に住むある程度裕福な人間がもつ、身勝手な考えにすぎないのだとしたら……。

 そんなスリリングな主張をするが『新しい目の旅立ち』という一冊である。著者はタイで小説家や芸術家、脚本家などで活躍するプラープダー・ユンだ。

【要約・解説】

 本書の内容をざっくり説明すると、著者であるプラープダー・ユンが汎神論の研究のために、フィリピンの「黒魔術の島」と呼ばれるシキホール島に滞在する話だ。

 汎神論とは、万物に神が宿るとする考え方なのだが、シキホール島の滞在の目的は、自然を神聖的なものと耐えるような思想や、万物に神が宿るという汎神論的な考え方を支持することが、社会や人間にとって得であるということを、証明するためであった。シキホール島を訪れる理由として著者は以下のように語っている。

 「自然を超越したもの」が実際にあると必ずしも信じていたわけではないが、そう信じることで、ぼくたちの予想が及ばない形で、その信心が世界と社会に好影響を与えるだろうとぼくは考えていた。

 しかしその期待は裏切られる。シキホール島の自然に触れ、祈祷師や現地の人、日本からシキホール島に移住した人と接するなかで、著者の考えは変わるのである。

 本書では自然に対する考え方として、以下の思想および、人物の思想が引用される。

  • 汎神論
  • ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
  • テッド・カンジスキー
  • ジェームズ・ラヴロック
  • スピノザ

 このうち、スピノザ以外の思想(汎神論、ソロー、カンジスキー、ラヴロックの思想)を批判的に扱っている。以下簡単に説明する。

自然を特別視する汎神論、ソロー、カンジスキー、ラヴロックの思想

 汎神論は前述のとおり、自然界のあらゆるものに神が宿るという思想だ。本書でも、一般的にも汎神論の説明にはスピノザの「神あるいは自然」(God or NatureまたはDeus sive Natura)という言葉が参照される。しかし著者は汎神論とスピノザの哲学は別物であると論じる。汎神論は自然を神聖なものとして扱うが、スピノザはそうではないと。

 自然を超越的なものとみなし、人間はそこに近づいていくべきであると主張したのが、ヘンリー・デイヴィッド・ソローだ。彼の思想は超越主義と呼ばれている。ソローは、1800年中頃の政治活動家、講演家であり、環境保護活動の先駆者ともされているが、それは彼が田舎に小屋をたて、自給自足の質素な生活を送り、精神を高め、自然に近づこうとしたからだ。この精神を高め自然に近づこうとする思想は超越主義と呼ばれており、「超越」という言葉は離脱や上昇を意味している。

 「人間は自然に帰るべき」と、ソローと似たような考えしたのがテッド・カンジスキーである。カンジスキーは、1978年から95年の間に自作の爆弾を郵便で送り、23人の負傷者と3人の死者を出す事件を起こした。彼は産業とテクノロジーが人類に災厄をもたらすと考え、それを解決するためには権力システムを破壊し、人間の生活を自然に近い状態に戻すべきであると考えた。この思想の実現のために、大学教員や学生、コンピュータ関係者など、テクノロジーや産業に関係する人々に爆弾を送りつけ犯行を実行したのだ。人間は産業やテクノロジーを捨て、自然に帰るべきだという思想をもっていたカンジスキーは、自身も自給自足に近い原始的な生活を送って暮らしていた。

 自然と人間を切り離したソローとカンジスキーとは違い、ジェームズ・ラヴロックは自然と人間を同一のものとみなした。NASAに所属経験があるラヴロックは、地球を「ガイア」と呼び、人間もその一部であると考えた。そして人間は地球の目であり脳であるとし、人間と自然を切り離して考えるべきではないという、スピノザ的な考え方を述べた。

 一方でラヴロックは「地球はわたしたちが宇宙から見つめる目を通して、彼女がどれだけ美しい惑星であるかをはじめて知った。」と述べた。地球は、目であり脳である人間をもつことで宇宙から、地球自身の美しさを知ったのだと。地球の気持ちを人間が代弁し、地球は美しいと考えた、そんな大胆な主張をしたのだ。

 この地球が美しいというのは、結局、ソローの自然を超越的なものとしてみる考え方や、カンジスキーの自然を人間が帰るべき場所だと考える思想を同じである。

自然を神聖視する思想は、中産階級が自己保身のために利用するもの

 ここまで紹介した汎神論、ソロー、カンジスキー、ラヴロックの思想を本書では批判的にあつかう。

 著者は自然豊かな場所であるシキホール島での滞在と、そこに暮らす人たちと接することで、自然を神聖なものとみなすような思想は結局のところ、裕福な人間が自己保身のために都合良く利用するものであると気づいたからだ。

ぼくは汎神論の応用(つまり神聖な力への信仰を、科学的に自然をとらえるものに変える、ジェームズ·ラヴロックのガイア理論に似通った方法)を、「地球環境保護」の適切なビジョンとして用いることができると考えていた。だがつきつめれば、結局その考えは、中産階級以上の人々の中にだけ存在できるロマンティックな思想の泥沼にはまっていた。

 自然豊かなシキホール島に暮らす人の多くは、都会に移住する選択ができず、そこで質素な暮らしをせざるを得えない人たちであった。またその人たちは都会で暮らす人々のように、自然を神聖なものとしてとらえてはいなかった。

 結局のところ、自然に特別な意味を見出したソロー、カンジスキー、ラヴロックは、中産階級の裕福な人間である。自然のなかで質素な暮らしを選ぶことも、都会で暮らすことも選べる裕福さがある。選択肢を多くもっている。

 しかしながら選択肢を多くもっている人たちは、自分の豊かさを犠牲にしてまで、選択肢が乏しい人たちを救うことはしない。多くの人は単にエコバッグをもつだけだったり、環境に配慮した商品を購入したりするだけである。それで社会活動に従事している気になっている。そしてこの表面的な活動で満足するために、自然を神聖なものとしてとらえる思想を支持する。つまり、自然保護を訴えるのは、自分たちの快適な生活を守るためでしかないのだ。

 私たち都市部に住む選択肢が多い人間は、エコバッグをもったり、エコな活動に従事したり、環境保護を訴えることで、社会的な活動に従事していると自分を納得させるのである。

本書が支持するスピノザの哲学

 汎神論やソロー、カンジスキー、ラヴロックの、自然が特別なものであるとする考えは、自分の生活を守りたい裕福な人が支持するのにうってつけだったのだ。このようなまやかしに気づいた著者は、最終的にスピノザの哲学を支持するにいたる。

 スピノザは前述のとおり、著書『エチカ』のなかで「神あるいは自然」(God or NatureまたはDeus sive Natura)という言葉を記し、万物は同一であるという考えを提示した。一見、汎神論のように思えるが、重要な部分で違っていると述べている。以下のように。

スピノザの哲学と汎神論は、たしかにとても近似している。だが重要な点で異なってもいる。汎神論では、万物の統一性を「神聖」なものとして扱う。だがスピノザの思想において、「神聖」という語は意味をもたない。あらゆるものは、それ自身があるがままに存在するからだ。なんらかの地位を与えてしまうことは、そこに異なるもの、あるいは正反対のものが存在することを意味してしまう。もし「神聖」なものが存在するのであれば、それは、神聖ではないものが存在することを意味してしまうのだ。

 このように述べた上で、汎神論は宗教的側面をもっているが、スピノザの哲学は宗教性を排除しているとする。すべてのものは単にそこにあるだけで、価値があるとかないとか、そんな判断は存在しないのだと。

 またスピノザの「万物は同一」であるということは、自然と人間が同一であるということでもある。だからといって人間が自然のすべてを把握できるわけではない。われわれ人間が自分の身体のすべての状態を知ることができないように、自然のすべてを知ることができるわけではないのだ。

 わかるのはわかることだけである。自然がなにを考え、なにをあるべき姿と考えているかなど、人間にはわからない。自然がどうあるべきかについて、どんな答えを出そうとも、それは人間が勝手に考えた人間のための答えであるにすぎない。

ぼくたちは自分を自然に仮託することはできないだろう(ラヴロックのように、人間が地球、あるいはガイアの目であり脳であると示すことは、ぼくたちが知りえないことへの志向の一例であり、証拠のない「思いこみ」でもある)。そして、地球が本当になにを求めていて、どのような状態であるのかを与り知ることもできないだろう。ぼくたちにわかるのは、ぼくたちの望むものと、ぼくたちの状態だけだ。

 としたうえで著者は、「人間と自然の関係について思索する必要はない」と述べる。

【書評・感想】環境に対する考えを覆す刺激的な一冊

 本書は自然や環境を考える際に、スピノザの哲学を引用し、またそれを汎神論と区別したことに意義があると筆者は考える。

 スピノザの哲学は、やはり一般的には汎神論だとみなされるが、汎神論が、自然に対する神聖さに言及するのに対して、スピノザの哲学は神聖という発想すらないという点で両者の決定的な違いを本書は提示した。これは今後、汎神論的な思想、アニミズムや祈祷、呪術を考えるうえで役立つものである。

 また本書は非常にスリリングな内容でもある。というのも本書は、スピノザの哲学を引用し「人間と自然の関係について思索する必要はない」と述べているわけだが、これは「環境保護なんて考える必要がない」と言っているようにもとらえられるからだ。環境保護が世界的なコレクトネスである現代としては、非常にスリリングな主張だ。

 しかし本書は、環境保護を訴える思想のなかに隠れている中産階級の自己中心的な価値観や願望を、シキホール島での生活との対比から炙り出した。自然に特別な意味を見出そうとする思想への批判の論理は、今後も現れるであろう多くの環境思想を考える上でも、役に立つはずである。まさに本書にタイトルにもなっている「新しい目」を獲得する体験でもある。

  それにしても本書の内容はなかなか痛烈である。おそらくこの本を読むのは、それなりに金銭的に余裕があり、選択肢もある中産階級であり、環境問題に関心をよせる人である。私を含めて。

 本書はそんな読者に対して「お前らの考えは、自己保身のためのまやかしにすぎないのだ!」と痛烈に批判する。シキホール島の自然の風景を挿絵にしたこの本の爽やかな体裁とは裏腹に、その読後感は、決して爽やかなものとはいえない。正しいと思っていた考えの根底を覆される、床がすぽっと抜け落ちるような感覚に陥る刺激的な一冊である。