『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か (西田亮介)』内容紹介と感想

2019年末から中国の武漢市で確認されはじめた新型コロナウイルスは、またたく間に世界に広がった。中国でウイルスが確認されてからすでに半年以上が経過しているが、今だに沈静化する様子はない。

日本においては緊急事態宣言が解除され、学校も再開した。飲食店の自粛要請も解除されたので、一時期にも比べれば状況はよくなったが、それでもまだまだ余談を許さぬ状況だ。

日本を、そして世界を混乱にまねいた新型コロナウイルス。これに対して日本政府はどう対処したのだろうか。その対応は迅速かつ適切だっただろうか。それとも諸外国に比べて遅く、そして小規模なものだっただろうか。

また日本社会とマスメディアは、日本政府の対応を正しく評価をすることができているのだろうか。

そのヒントを教えてくれるのが『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か 』だ。著者は東京工業大学の教授をつとめる社会学者の西田亮介氏だ。

彼は本書において、リアルタイムで進むコロナ禍のなかで、政府による公的資料をもとに、コロナ禍における政府の対応を紹介してくれている。これを読めるだけでも価値がある一冊なのだが、その他、政府の政策にたいしてメディアや社会がとった行動、報じた内容を分析し、その課題を提示している。

ネットでは散らばりがちな政府の対応を俯瞰できる価値のある一冊であることは間違いない。

本記事では、この本の内容をおおまかに紹介できればと思う。

目次

コロナ禍における政府の対応は遅かったのか

コロナ禍における政府の対応は「遅い」「不十分」というのが通説だが、そういった通説とは異なり、実際の政府の対応はもう少しまともだったという。

政府の初動は決して遅いものではなかった

コロナ禍における日本政府の初期の対応は、WHOの動きと連動する形で、それなりにウイルスに対して警戒を呼びかけていたため、政府の初期の動きは決して遅くはなかったとしている。

ただしその後の首相の記者会見は遅いといえるものだったし、会見での発言内容も決して十分なものではなかった。その他、諸外国にくらべて緊急事態宣言の発令が遅れたことや、経済対策についても遅い印象を与えた。

こういったことが、結果的に「政府の対応が遅い」という印象を与えてしまったのではないかと論じている。

経済対策は足りなかったのか?

また一般的に「小規模」という印象がある給付や補填に関しても、実際は世界で類をみない規模になったという。

たとえば、緊急経済対策は財政支出が2.2兆円、事業規模108兆円で、リーマン・ショック後の対策を2倍近く上回り、日本のGDPの約2割の規模のものになった。

また中堅中小企業を対象に200万、個人事業主を対象に100万の上限を設定した持続化給金や、全世帯に給付された10万もあった。給付の仕方や給付対象の選定については課題が残るが、補填の規模としては前例のないものになったとされている。

政府は耳を傾けすぎた

「遅い」「小規模」という通説とは異なり、政府の実際の対応は遅いともいえないし、また補填の規模も決して小さいものではなかったというのが本書のみたてだ。

ただしだからといって政府の対応が正しいかったとはいってない。どちらかといえば政府の動きに対して批判的だ。

なかでも重点的に論じられる問題点が「耳を傾けすぎる政府」だ。

「耳を傾けすぎる政府」とは政治が効果や合理性よりも、可視化された「わかりやすい民意」をなにより尊重しようとする政治の在り方のことだ。

つまりコロナ禍において政府は合理性や妥当性を考えずに、とにかくネットやメディアの声に耳を傾けていたのではないか、というのだ。

民主主義にとって、国民の声にしっかり耳を傾けてくれる政府はいいように思える。しかしなんでもかんでも国民の意見を聞けばいいというわけではない。なぜなら民意が合理的とは限らないからだ。そのことは本書でも再三指摘している。

特にコロナ禍においては、政府は統計や世論調査といった民意に耳を傾けていたわけではなく、マスメディアやSNSといった、簡単にいえば偏った民意に耳を傾けていた。

SNS、とくにTwitterは主張・表現が過激な人ばかりが目立つし、フォロワーの数によって、意見の拡散力も大きくなる。フォロワーが少なく、マイルドな物言いの人の意見が拡散されることはまずない。またマスコミは視聴率・PVを稼ぐために過激な発言をする。

そんなところに公正な民意が現れるはずがない。にも関わらず、政府はそこに耳を傾ける。「耳を傾けすぎる政府」が問題であるのは自明だ。

では本来政治はどうあるべきなのか。本書では以下のように主張する。

「政治と社会は本来対話を重ねることが求められ、両者が合意に至らないときには言葉を尽くした説明と、ときには説得や決断が求められる」。

表出した社会の意見と政府の意見が異なるなら対話を重ねるべきである。しかし新型コロナにおける政府は、これを怠った。(それ以前も耳を傾けすぎる傾向はあったが)。

たとえば、全世帯に給付された10万円について、当初は収入が減った世帯と住民税が非課税の世帯に30万円を配る政策だった。

ところがこの30万給付案は、ネットをはじめとるす世論に不人気であり「後手」「小規模」として批判された。その結果、全世帯に10万円が給付されることになった。しかしこの政策だと、裕福な人にも10万円がわたる一方で、本当にお金を必要としている困窮している世帯の人にも10万しかわたらない。

また給付スピードの面でも問題があり、この政策が合理的だったどうかは疑問が残るとしている。

なぜ政府は耳を傾けるすぎるようになったのか?

ではなぜ、政府は耳を傾けすぎてしまったのだろうか?

その理由として本書があげる理由の1つが「内閣支持率の急速な低迷」だ。

多くの場合、危機的状況のときは政権の支持率が上がるが、安倍政権はそうはならなかった。あるコンサルティング会社が4月におこなった政府の信頼度調査によると、11カ国、日本だけが2月の調査よりも政府の信頼度が下がったこと明らかにしたという。

政権支持率の低下の要因はさまざだが、1つの例としてあげているのが、この時期に発生した政治スキャンダルだ。「桜を見る会」の開催をめぐる問題や検察官の定年延長問題など、社会が政治の動向に注目する時期に、たてつづけにスキャンダルが発生した。

新型コロナ発生の初期における政府の対応は決して悪くなかった。しかしながら政治スキャンダルや、ハッシュタグデモなどが盛り上がった結果、内閣支持率が低下。それによって政府はマスコミやネットの意見に耳を傾けすぎるようになっていったという。

冗長性が求められる

まとめるこうなる。コロナ禍において、政府の初動は決して遅くはなかったし、経済支援が額も決して小規模ではなかった。しかしながら、会見の遅れや政治スキャンダルによって支持率低迷が露呈した政府は、ネットやマスメディアといったわかりやすく、目立ちやすい意見に、急に耳を傾け、妥当性を考えずに場当たり的に政策に走るようになった。本書はではこれを「耳を傾けるすぎる政府」として批判的に表現している。

この問題にたいしてわれわれはどうすればいいのか?

端的には以下の通りだろう。

「事態の直視と脊髄反射的反応への忍耐、過去の経緯と対処の正しい認識と理解が必要だ」。

つまり、PV・視聴率至上主義のマスメディアに報道やネットのトレンドに脊髄反射しないことをこころがけるべきということだ。また過去の経験、つまり今回のコロナ禍で得た経験を忘れずに活かすことも重要であるということも指摘されている。

著者の西田氏はマスメディアがまともに機能していないこを問題の1つとして指摘している。こういった有事の際にメディアが政府の動きや過去の教訓を正しく報道していくべきだが、現在のメディアはその役割を果たせていないというのだ。その原因としてあるのが、ネットメディアへの対応や人員削減による、記者の質の低下だと指摘している。

時間も人も少ないマスメディアにとって、時間をかけた取材は無駄だ。少ない労力で視聴率が稼げる話題ばかり報道するのが合理的だ。

それは公共部門についてもいえることで、余裕のなさ、つまり冗長性のなさがによって場当たり的な政府の対応や、コロナ禍における公共部門の混乱に、一因があるのではないかと指摘する。

そして本書の最後の主張は「冗長性が必要だ」ということだ。

ただしそれはこれまで無駄と判断されたきたことを復活しろというわけではない。そうではなく、新しい冗長性が必要なのはないか、その冗長性はどのようなもので、またどのように社会に実装していくのがいいだろうか、その議論がこれからの社会にもとめられるのではないかと、最後に結論づけている。

PV・視聴率重視の報道を続けるマスコミの劣化、そして政府の胆略的な対応も、感染症対策の余裕のなさも、余裕があれば改善できるのではないか、というのが結論ということだろう。

おわりに:我々も脊髄反射的な対応を止めなければいけない

耳を傾けるすぎる政府のマスメディアも、社会も、みな同じようにわかりやすく、手軽に注目集められる方法を選んでいる。政治も社会も脊髄反射的な対応ばかりに走るようになった。

社会の一人ひとりが、マスメディアの視聴率第一主義の報道に胆略的に耳を傾けるのをやめ、またネットに散見される影響力が大きい個人の発言に脊髄反射的に反応をするのを、そろそろ我々はやめなければいけないだろう。

それにしてもこんなことは昔からいわれていることだ。ネットでの発言やリツイートといったリアクションは、反射的に行うのではなく、一息置いて一度考えてからしましょうというのは、ここ数年あらゆる場所で何度もいわれてきたことだ。

それにもかかわらず社会はあいも変わらず脊髄反射的な反応ばかりしている。ついに政府までやりはじめた。合理性を考えず反射的に政策を決める政府だ。

SNSでの活動をはじめた政府は、コスパがいいわかりやすいことしかやらないインフルエンサーやはやりの実業家のように、コスパと体裁重視の政策ばかりやるいようになった。

悲観的にみるならこれが自由民主主義と資本主義が融合した社会の当然の帰結なのかもしれない。

耳を傾けるすぎる政府は、顧客第一主義の企業と化してきている。本来で政府は企業ではやらないような一見非合理的と思えるようなことを思い切ってすすめるために存在するはずではなかったのだろうか。国民一人ひとりがこういった耳を傾ける政府を疑問に思わなければ、行き着く未来は明るくはないだろう。

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