『テーマパーク化する地球』は、テーマパーク化する地球という主題にそった評論集だ。
著者の東浩紀は、哲学者、批評家として活躍する人で、以前は3.11によって被災した福島の観光地化を計画した人でもある。
つまり、地球をテーマパーク化しようとした人物である。本書は、そんな著者が地球のテーマパーク化について論じる一冊だ。
そして本記事では『テーマパーク化する地球』の根幹である「テーマパーク化するとはどういうことか?」について解説するとともに、テーマパーク化の意義について僕の意見を紹介できればと思う。
地球がテーマパーク化するとはどういうことか?
とても簡単に説明するならテーマパーク化とは、地球のあらゆる場所が観光地化していくことだ。
本書ではその1つの具体例として、チェルノブイリをあげている。
チェルノブイリは旧ソ連(現ウクライナ)にある原発。この原発が1986年事故を起こした。現在でもその廃炉作業は続いており、放射線濃度も他の場所に比べると高くなっており、原発の30キロ圏内は関係者以外は立入禁止となっている。事故の詳細については割愛するが、原発が並ぶ発電所、事故以降、ゴーストタウンと化したチェルノブイリの街は、現地ガイドの同行があれば観光できるようになっているのだ。
実は僕も2018年に、株式会社ゲンロンが主催するチェルノブイリツアーに参加し、チェルノブイリ原発と、周囲のゴーストタウンを観光した。

死者もでている、住民のほとんどは退去を命じられている。現在でも廃炉作業が続いている。そんな場所が観光地になっている。
このように悲劇の地が観光地化する例はほかにもある。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所もそのそうだろう。
このように悲劇の地やネガティブな記憶を持つ場所が、どんどん観光地化しつつある。こういった例をとって本書は『テーマパーク化する地球』と題している。
ただし、テーマパーク化するのは場所だけとは限らない。批評や哲学といった学問ジャンルについても言及しているし、またイスラム国のメディア戦略についても「虚構化する現実」と表して、言及している。
虚構化する現実
テーマパーク化する地球の別の側面として紹介されるのが、現実の虚構化だ。具体例として紹介されるのが、イスラム国のハリウッド映画顔負けメディア戦略だ。
現在は落ち着いたが、当時はイスラム国が制作した動画がメディアでさんざん放映されていた。その映像は極悪非道なテロ組織がつくった陰湿なものという印象はなく、視聴効果を多用した現代的な映像だった。
彼らがおこなっているのは、間違いなく残虐なテロ行為だったが、一方で彼らが制作した映像は、映画の予告といわれれば、違和感なく観てしまいそうなほど完成度が高いものであった。
その様子について本書では以下のように論じられている。
彼らにとって、現実はもはや現実らしく見える必要はない。必要なのは、圧倒的な画質と巧みな特殊効果と荘厳な音楽によって、若い視聴者の心をハリウッド映画のように動かし、世界中から兵士志願者を集めることでしかない。
(中略)
イスラム国は、残酷な映像をつぎつぎ制作し、公開し「炎上」させることで、二一世紀の市民から、現実と虚構、戦争とゲーム、政治と娯楽の区別を奪おうとしている。テーマパーク化する地球 p073
テーマパーク化する地球 p073
現実で起きていることが、映像効果のせいで虚構にもみえてしまう。これを現実の虚構化として、テーマパーク化する地球の一例として紹介している。
テーマパーク化できない地球
一方、本書ではテーマパーク化したくてもできない例も紹介される。わかりやすい例は著者である東浩紀が打ち出した「福島観光地化計画」だろう。
東浩紀はチェルノブイリがそうなったように、福島を観光地化しようとした。津波と原発事故の悲惨な過去を、そこから得られる教訓や経験、当事者の思いなど、それら諸々の記憶を後世に伝える手段として観光地化を打ち出した。しかしその計画は強い反発をうけて頓挫した。
なぜ福島観光地化計画は頓挫したのか、なぜチェルノブイリのように観光地化することができなかったのか、そこに日本人のどんな意識が見え隠れするのか。実際に受けた批判や日本人に通底する観念を論じながら、テーマパーク化に反発する地球についても紹介する。
テーマパーク化を礼賛する本ではない
本書はけっして、なんでもかんでも観光地化すればいいという立場ではない。それはあとがきで書かれている。
本書はけっして、これからはなにもかもテーマパーク化していくんだ、それでいいだというお気楽な書物ではない。世界にはテーマパーク化に抵抗する場所が数多くある。歴史的暴力現場や巨大災害の被災地はその一例である。ぼくの関心はそちらにも向けられている。
テーマパーク化する地球 p392
上記のように、著者の関心はテーマパーク化に反発する場所にあると書いているし、テーマパーク化への抵抗が重要だとも書いている。
テーマパーク化は、記憶を後世に伝える手段でもある
その一方で、地球はテーマパーク化することでしか今の記憶を後世に伝えることはできないとも書いている。
それでもやはり「テーマパーク化」という言葉をタイトルに据えたのは、いくらテーマパーク化への抵抗が重要だとしても、現実にはその抵抗の記憶そのものがテーマパーク化を通してしか後世に伝わらない、その逆説こそが現代社会の条件であり、また本書全体に通底する主題だと考えたからである。
テーマパーク化する地球 p392
テーマパーク化とは資本主義の論理に絡め取られることを意味する。人を呼べるもの、観光資源として価値があるものは残し、つくる。一方で、観光資源にならないものは、否応なく捨てられていく。バブル期の遺産をかかえる北関東の温泉街やスキー場がそうであるように、人を呼べない場所は廃れていく。
資本主義とはそういうシステムである。一方で、福島は災害で死者がたくさんでた悲劇の土地である。その地を観光地化しようというのは、悲劇で金を儲けてやろうというスタンスにも受け取れる。いや多くの人はそう受け取るだろう。だから東浩紀の福島観光地化計画は強い反発にあった。
しかし観光地化することで、人々の関心は後世まで続く。観光にきた人は嫌でも、悲劇の記憶を持ち帰る。もし福島も悲劇の地が観光地になり、廃炉になった原発や倒壊した家々を見学できるとしたら、福島の悲劇の記憶は、観光を通して、10年後も20年後も、その後何十年も、人々の記憶に残ることになるかもしれない。東はそれを狙ったのであろう。
実際、僕はチェルノブイリを観光して、チェルノブイリの記憶を受け取ることができたように思う。僕はゴーストタウンになったプリピャチ(原発の近くにある)の街に興味があって参加しただけだった。しかしツアーに組み込まれている、原発見学や元職員による講演などを経ていくと、嫌でもチェルノブイリの記憶が脳裏に刻みこまれる。その悲惨さや人類の傲慢さ、ソ連という体制の限界など、とても一言では表現しきれない、当時の何かをたくさん背負い込んで帰ってきた。それはチェルノブイリだけではなく、福島についても、そして原発という諸刃の剣についても思いを巡らせるきっかけになった。
もし福島が観光地になっていたとしたら、僕がチェルノブイリでしたのとおなじ経験を、多くの人ができたかもしれない。そして福島の人たちが残した記憶、日本人が残した何かを、一緒に背負い込むことができたかもしれない。
もちろん観光にそこまでの義務はない。「原発カッコいい」で終わる可能性もある。しかしそれでもいい。何を持ち帰るかは本人の勝手だ。それが観光だ。しかし柔軟性こそが観光の意義なのかもしれない。復興が進み、街が元どおりになったのでは思い出すことができない過去の記憶を、未来にも語り継ぐことができるのかもしれない。アウシュビッツもチェルノブイリも、これから先何十年も、その記憶を後世につないでいくだろう。
悲劇を抱えた日本の街は、それができるのだろうか。
テーマパーク化はこれからも進む。観光地化、娯楽化、虚構化が進む、昨今の地球にたいして、それはいったい歓迎すべきことなのか、それとも断固反対していくべきなのか。はたまた反対しつつ受け入れざるをえないのか。『テーマパーク化する地球』はそれを考えさせてくれる一冊であった。