ポストモダンの人間が動物化したとはどういうことか?|『動物化するポストモダン(東浩紀)』の書評

批評家であり哲学者である東浩紀の著書、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』を読んだ。

『動物化するポストモダン』はポストモダンの、オタクたちの消費行動の変化を論じたうえで、それらの消費行動の変化は、社会に対してどのような影響を与えうるのかを、論じた一冊だ。

ここで論じられるポストモダンとは、1970年代以降の時代のことだ。

『動物化するポストモダン』は2001年に出版された著書であるが、令和の現在でも、まったく古びることはない。むしろこの本で描かれたオタクたちの消費行動は、オタクだけでなく大衆化し、社会全体を覆うようになっている。リモート化、AI化が進む、思想なき今の時代を考察する上でも、有用な一冊であることは間違いない。

それでは簡単に内容を紹介していく。(解説に関してはぼくの解釈が含まれるので、注意して読んでいただきたい)

ポストモダンにおけるオタクの誕生と物語消費の時代

前述の通りポストモダンとは、1970年代以降の社会のことだ。

ではポストモダンに、オタクの消費行動はどのように変容したのか?

1970年代までは、共産主義や民主主義など現実的な大きな物語を信じていたが、ポストモダン以降、それら現実味のある大きな物語を瓦解した。

そこで一部の人たちは、虚構のなかに大きな物語を求めるようになった。たとえば、アニメや漫画などのサブカルチャーだ。

大きな物語の穴埋めとして、サブカルチャーに傾倒する人たちが現れた。そして、そういった人たちのことをオタクと呼ぶようになった。

初期のオタクは漫画やアニメの表層にある小さな物語から、背後にある大きな物語を信じ、論じていた。作品の世界観や歴史観について関心を持った。たとえば、『機動戦士ガンダム』の関連書籍では、常にメカニックのデータや年表に紙面が割かれていたという。

このように作品の表面に現れる小さな物語から、背後にある大きな物語に関心を寄せることを、著書のなかでは、物語消費と呼ばれている。

物語消費からデータベース消費の以降と、データベース消費について

一方で、90年代頃になって、オタクたちの消費行動は変容する。物語消費が「データベース消費」になったのだ。

データベース消費とはなにか?

ここでいうデータベースとは、作品における要素が蓄積されているデータ群といえるだろう。たとえば作品に登場するキャラの設定や外見、性格、目の色、髪の色、猫耳といった作品を構成する無数の要素(データ)がある。

90年代以降の作品は、それら無数の要素(データ)を、消費者にウケるように組み合わせて作られている。その作品の背後に大きな物語はない。たんに、データベースからオタクが喜びそうな要素を集めて作られているだけだ。そしてそれをオタクたちは、喜んで消費する。

それを東浩紀は本書で、「データベース消費」と呼ぶ。

その重要な例としてあげているのが、『デ・ジ・キャラット』だ。これはアニメ・ゲーム系の商品を扱う販売業者のイメージキャラクターとしてつくられた。このキャラクターの背景には、物語が一切存在しなかったのだが、CMで人気が出た後、物語や設定、関連のキャラクター、そしてアニメが作られた。

ちょうど動画があったので、掲載しておく。

デ・ジ・キャラット 第01話 「でじこが来たにょ」

またこの『デ・ジ・キャラット』のデザインは、デザイン性を排除し、猫耳やメイド服などのいわゆる萌え要素(データ)を集めただけのキャラクターだという。

まさにデータベースから、オタクウケする要素を組み合わせて作られているわけだ。そしてそれを喜んでオタクたちは消費する。

『デ・ジ・キャラット』を消費することは、単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな非物語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、より広大なオタク系文化のデータベースを消費することへと繋がっている。

p78

いまや、個々の物語が登場人物を生み出すのではなく、逆に登場人物の設定がまず先にあり、その上で物語を含めた作品や企画を展開させるのが一般化している。

p72

動物化とは?

ポストモダンの物語の消費の仕方がデータベース的になった。それを東浩紀は「動物化」という、揶揄的ともとれる表現をしている。(一方、東浩紀は人間が動物化することに対して、断固否定というわけでもない)

なぜ、データベース消費に揶揄的(にみえる)なのか?

それはデータベースから、ウケる要素だけを抽出して作られたにすぎない作品を、反射的に消費し、そして満足しているからだ。

今でいうなら、好きな声優が起用されているだけで、反射的に消費するような態度といえるだろう。

また動物化のもう1つの側面をフランスの思想家、コジェーヴの言葉を用いて表現している。それは、「動物は欲求しかないが人間は欲求と欲望がある」というのだ。

欲求とは、与えられれば満たされるものだ。たとえば食欲など。一方で、欲望は、与えられても満たされないものを指す。たとえば嫉妬だ。人間は他人の欲望を欲望する。この意味で、動物とは違う。

別の言い方をすれば、欲求は他者の介在なしに満たせるもの、欲望は他者がいないと満たせないものともいえる。そういった意味でも、欲望は人間的なものだ。

そしてポストモダンのオタクたちは、欲望がなくなり、欲求ばかりで、動物化しているという。

データベース消費とは、個々人が好きなものを好き勝手に消費する態度だ。この消費行動に、社会性や公共性などが生まれる余地はない。

人々が動物化すると社会はどうなるのか?

端的に論じられている部分を引用する。

近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じ人間固有な社交性を通して結ぶことができた。

しかしポストモダンの人間は「意味」への渇望を社交性を通して満たすことができず、むしろ動物的な欲望に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな比物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただの即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。

動物化するポストモダンp140

ちなみに東浩紀は、本書の出版後、別の記事で「動物化」について以下のようにも説明している。

「それはとりあえずは、社会が複雑化し、その全体を見渡すことが誰にもできなくなってしまい、結果として多くの人が短期的な視野と局所的な利害だけに基づいて行動するようになる、そのような社会を意味する言葉です。」

https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter11-1/

動物的な消費行動が社会に与える影響とはなにか?

ぼくの解釈でいうなら、われわれは個人として社会に対して何をすべきか、どうすればいいのか、といった視点を持てなくなり、そして多くの人が、社会や他人のことを考えず、個人の欲望を満たすことに夢中になる、そんな社会になるということだろう(すでになっているが…)。

ちなみに現在の東浩紀は、動物化することに対して、反対というわけではない。賛成でもないが、人間は本来動物なので、動物化するのも悪くないのでは、といった立場だ。詳細は以下の記事で紹介されている。

東浩紀、『動物化するポストモダン』刊行から18年後の現在地を語る

【終わりに】動物化はさらに加速する

以上、『動物化するポストモダン』の内容をざっと説明してきた。

『動物化するポストモダン』が刊行されてから20年ちかくたつが、データベース消費化、そして人間の動物化はさらに進んでいるように思える。

スマホとSNSの台頭は、物事のデータベース化を一気に進めた。

食べログやぐるなびは、飲食店を平均予算や料理ジャンル、席数、そして星の数といったデータベースに押し込んだ。

ペアーズやティンダーのようなマッチングアプリは、パートナー選びを、年収や体型、職業などのデータベースに押し込んだ。

人間は、行くべきではないレストランを、選ぶべきではないパートナーを、一瞬で切り捨てるようになった。

そして人間はさらに、物事を短期的に判断するようになっている。

Twitterの140字だけで、ニュースサイトのタイトルだけで世の中を知った気になり、異を唱える。他人や社会、将来世代は二の次。個人としていかに幸福になるかを考える人々が増えた。

今後もこの流れは加速するだろう。人間はどんどん物を考えずに済むようになる。AIが提案してくれた、映画をみて、食事をして、パートナーを選び、そして死んでゆく。そういった人たちが増える。その先にみえるのは、SF映画で描かるディストピアかもしれない。しかしそれでも、楽な生活が良い、との生活を喜んで受け入れる人がいるだろう。

『動物化するポストモダン』は、データベース化する社会が、人類が、行きつく未来を考えるうえで、非常に有用な一冊だろう。