『食の社会学 パラドクスから考える』の書評と、食における人間の加害性について

ブラック労働に支えられている高級レストランの料理。食料の過剰と不足が同時に起こる社会。地球環境に配慮したオーガニックフードを作るために、重労働に強いられている人たち。

われわれ普段何気なくしている食には、数々の矛盾した側面が存在している。

3人のアメリカ人社会学者によって書かれた『食の社会学: パラドクスから考える』は、先のような食にまつわる矛盾、社会的な問題を紹介してくれる一冊だ。著者がアメリカ人であるため、本書で紹介される事例、展開される議論は米国に限ったものであるため、一部、日本には当てはまらないと思われるものもある。一方、われわれが普段何気なく行う食事という行為が、数々の社会的矛盾の上に成り立っていることを思い知らせてくれる一冊でもある。

内容紹介

芸術的な料理の裏側にあるブラック労働

本書の内容の一部について具体的に紹介する。たとえば第三章で紹介されるのは豪華ディナーの裏側が低賃金、重労働に支えられているというものだ。

芸術的で豪華なディナーを作るシェフ。その他、客の食事の進行状況をうかがい、熱々の皿をテーブルに運び、さらに客のクレーム対応を行うウエイター。高級レストランであっても、シェフとウエイター、そのスタッフたちは低賃金、重労働を強いられている場合がある。

外食産業はブラック労働で溢れているということは日本においても当てはまる。最近は改善しつつあるかもしれないが、依然として飲食はキツイというイメージだ。

高級レストランのディナーであれ、有名なラーメン屋のラーメンであれ、有名パティスリーのケーキであれ、芸術的料理の裏側にあるのは地味でキツイ作業の数々だ。しかも一部のスターシェフを除いて、給料はかなり低かったりもする。今では減ってきていると思うが、日本の寿司屋や天ぷら屋、ラーメン屋など修行が必要だとされる分野の料理人は、修行期間中はほぼ無給で働いている場合もある。

われわれが20分やそこらでたいらげてしまう芸術的な料理の裏側には、料理人、スタッフのブラックな労働環境が隠れている。

消費者主義は神話なのか

われわれは食に対して主体的だろうか。つまり、自分が食べたいものを正確に把握し、その欲望に素直にしたがって購買行動をしているのだろうか。もしくは食品業界の広告や、社会的に圧力によって、食欲や購買行動をコントロールされているのだろうか。

第五章で話題になるのは「消費者主義の神話」だ。つまり、消費が好きなものを選んでいるというものは神話にすぎず、消費者は企業や社会的圧力によって食べるものをコントロールされているのではないか、という議論だ。

本書ではスーパーマーケットの商品の陳列を例にとって説明している。いわく缶詰の陳列の仕方を変更したことで、缶詰の売れ行きに影響がでたというのだ。客は、スーパーの棚の陳列に消費行動をコントロールされてしまったわけだ。

こういった例は、北欧家具のIKEAやドン・キホーテを考えてみるとわかりやすい。どちらも消費者主義を掲げているだろう。しかし内実は独特な店舗設計によって、客の動きや感情をコントロールしている。

どのお店おいても客は主体的に行動しているつもりではある。しかし実際はドン・キホーテが作る迷路のような店内設計、もしくはIKEAのような道順を強いられる店舗設計に操られて、買うはずではなかったものをレジに持っていってしまうことがある。

どのお店も「お客様のため」と消費者主義を掲げる。しかしほぼすべてのお店が、特定の商品を買わせるために、もしくはより多くの商品を買わせためにあらゆる仕掛けを仕込んでいる。

われわれは食に関しては主体的なのだろうか。それとも受動的なのか。

安い食品ほどコストが高い

われわれの身の回りには安い食品がたくさんある。一時に比べれば値段は上がっているものの、おいしい牛丼が500円以下で食べられる。1000円あればたいていのものはお腹いっぱい食べることができる。

そこらじゅうにあふれる安い食べ物。しかしそれらは本当に安いといえるのだろうか。その議論が、第六章でなされる。

本書では、安い価格を維持するためのコストが高くつくと論じる。たとえば安い食品を大量生産するために、地球環境を破壊して、壊れた自然を回復させるためにコストがかかる場合がある。また工業的に生産された安い食品は身体に害を及ぼし、治療にコストがかかることもある。300円の牛丼を毎日食べ続ければ食費は節約できるかもしれない。しかし栄養失調で病気になれば治療費がかかるし、仕事だってできなくなる。かえってコストになるのだ。

また、海外から安い食品を輸入することで国内の産業が壊滅し国力の低下を招く可能性もある。健康を害したり、環境が破壊されたり、安い食品にはコストが高くつくことがある。

食べることには常に加害性が伴う

本書では他にも、食べ物の余剰と不足が同時に起こるという、貧困と飽食の問題や、身体いいものは美味しくないという健康と食事の問題など、数々の食の問題が紹介されている。

本書を読んでわかるのは、われわれの食事のほぼすべてが、社会問題に関わっているということだ。マクドナルドのハンバーガーを食べることは地球環境の破壊につながるかもしれないし、スーパーの安いコーヒーを購入することは発展途上国の搾取を肯定することもかもしれない。環境のためにと買ったオーガニックフードは、農家のブラック労働によって生まれているかもしれない。

グローバル化によって過度に複雑化した社会では、自分が食べたものが誰の手でどのように作られたかなんてさっぱりわからない。企業はそれを積極的に隠している場合だってある。

そもそも食べるということは何かを殺す、もしくは搾取することである。われわれ人間は、自らの空腹を満たすために動植物を管理し、殺し、搾取してきた。人間が生きること、それはすなわち、動植物、人間、地球に対して何かしらの害を及ぼすことでもあるといえる。

職業が細部化されグローバル化が進んだ現代は、社会が複雑化し、食にまつわる人間の加害性はわかりにくくなっている。しかし確実に誰もが何かしらの形で加害者である。

大切なのは自らの加害性を自覚することであろう。完全に清廉潔白な食行動を行える人なんて誰もいない。誰もが動物を殺し、植物を搾取し、獲得したものを食べて生きているのだ。

人間は自分の加害性について、まずは自覚するべきだ。その上で、どれだけ持続可能な社会を目指せるか。そのためにどんな行動ができるのか。それを考えることがわれわれすべきことなのではないだろうか。