弘前(青森県)にはフランス料理屋と洋菓子屋が多い理由について考察

 先日、青森県の弘前(ひろさき)を訪れたのだが、1つ非常に驚いたことがある。街の規模に対して、フランス料理屋と洋菓子屋の数が非常に多いのである。

 弘前市は人口16万規模の地方都市で、電車は概ね1時間に2、3本という程度である。そんな街であるが、市の中心地といえる弘前駅と中央弘前駅の周辺には、なんとフランス料理屋が8軒、洋菓子屋が10軒もある。地方都市としては”明らかに”フランス料理屋と洋菓子屋が多い。それにしても、いったいどうして弘前にはフランス料理屋と洋菓子屋が多いのだろうか。

目次

なぜ弘前にはフランス料理屋と洋菓子屋が多いのか?

 なぜ弘前にフランス料理屋と洋菓子屋が多いのか。その理由は、いくつかの要因が複合的に関係しているのではないかと考えている。いくつかの要因とは、次の4つである。

  • 料理人を育てる環境があった
  • フランス料理や洋菓子を受け入れる風土があった
  • 街の人が、弘前をフランス料理の街にするべく奮闘した
  • いい食材が手に入る環境があった

 上記のような要因が複合的に関係し、弘前はフランス料理と洋菓子屋の街になったのではないだろうか。以下詳しく解説していく。

明治期の弘前の欧風化政策は直接の理由とはいえない

 弘前にフランス料理屋が多い理由について、ネットで調べると、概ね次のような説明がなされている。すなわち、明治期に弘前は西洋の文化を積極的に取り入れようとする気風があり、洋館の建築や外国人の誘致を積極的に行った。その影響で腕のある料理人が増え、またいい食材に恵まれていたので、自然にフランス料理屋が増えていったというものである。

 しかし前述の説明では、現在の弘前になぜフランス料理屋と洋菓子屋が多いのかという疑問の、直接的な解答になっていない。明治期の欧風化政策は、弘前だけではなくあらゆる都市で見られたはずである。仮にその影響で弘前にフランス料理屋が増えたとしても、戦時中は閉業を余儀なくされているであろう。戦後どのようにして、弘前がフランス料理と洋菓子の街になったのかについては、明治期の政策だけでは説明できない。

 また、そもそも現在弘前にあるフランス料理屋の多くは、1990年代以降にオープンしている。つまり、弘前にフランス料理屋が増えたのは比較的最近のことなのである。

フランス料理屋が増えたのは1990年代になってからか

 現在弘前にあるフランス料理屋のオープン時期を調べると、その多くが1990年代以降であることがわかった。具体的には1994年に1軒、95年に2軒、98年、99年に1軒ずつである。60年代や70年代から存在している老舗と呼ばれる店は1つも見当たらなかった。弘前にフランス料理屋が増えたのは1990年代以降、つまり比較的最近だと考えるのが妥当なのではないだろうか。するとやはり、前述の明治時代頃の欧米文化積極受容の姿勢は、弘前におけるフランス料理屋増加の直接的な要因だとはいえない。もちろん関係がゼロとはいえないが。

 では何がきっかけとなって90年代にフランス料理屋が増えたのだろうか。やはり、前述の4つの要因が複合的に関係していると考える。

  • 料理人を育てる環境があった
  • フランス料理や洋菓子を受け入れる風土があった
  • 街の人が、弘前をフランス料理の街にするべく奮闘した
  • いい食材が手に入る環境があった

料理人を育てる環境が弘前にはあった|弘前フランス料理研究会とホテル法華クラブ弘前の存在

 弘前がフランス料理屋と洋菓子屋の街になった要因の1つは、料理人を育てる環境が存在したことにあるのではないだろうか。

 まず弘前とフランス料理の関係を考える上で欠かせない存在の1つが「弘前フランス料理研究会」である。『ようこそ、フランス料理の街へ。』(丸山馨、弘前大学出版)によれば、この会は1989年に発足した会で、ホテル法華クラブ弘前(現在は閉業)で料理長を勤めていた山崎隆が、知り合いの料理人30人で立ち上げた。目的はフランス料理を通じた調理技術向上。初代会長を務めた山崎は「有名シェフを手伝いながら高い技術を磨くというか、盗む。と同時に中央に追いつき追い越せが最大の眼目でした」と語っている。

 この会は、定期的にゲストを招いてシンポジウムを開催していた。しかも天才シェフとして世界でも知られる三國清三がゲストとして参加していた。三國は北海道出身であるが、研究会を立ち上げた山崎と親交があり、弘前をフランス料理の街にしたいという山崎の活動を応援していた。この「弘前フランス料理研究会」の存在が優秀な料理人の育成に貢献したことは間違いないだろう。

 またシンポジウムとあわせて食事会、美食会のような催しも開催していたそうであるが、このような催しが、弘前の街の人にレベルの高いフランス料理の味を届けたはずである。そして弘前にフランス料理を受け入れる土壌を育んだのだろう。

 弘前の料理人を育てたのは弘前フランス料理研究会だけではない。もう1つ、ホテル法華クラブ弘前の存在も欠かせないと考えられる。ホテル法華クラブ弘前は、現在は別のホテルになっているが、弘前のフランス料理屋のシェフの何人かは、ホテル法華クラブ弘前での修行経験がある。弘前フランス料理研究会を立ち上げた山崎隆は、法華クラブで料理長を務めていた。また現在弘前の人気フランス料理、Chez Ange(シェ・アンジュ)のシェフも法華クラブに勤務経験がある。

 法華クラブは当時の弘前市内ではトップクラスのホテルであったとされている(『奇跡を起こす 見えないものを見る力』 (木村 秋則、SPA!BOOKS)。このホテルが料理人を育てた事実はあるだろうし、また弘前の人々に本格的なフランス料理の美味しさを伝えたに違いない。法華クラブの存在は、フランス料理の街の土壌を育んだのである。

 レストラン山崎のオーナーシェフである山崎隆が立ち上げた「弘前フランス料理研究会」。そして当時の市内でトップクラスのホテルであった法華クラブ。弘前がフランス料理の街になった理由を考える上で、この2つの存在は欠かせないだろう。

街の人が弘前をフランス料理の街として盛り上げた(観光キャンペーンの発足)

 弘前は自然にフランス料理の街になったわけではない可能性がある。というのも、フランス料理の街として盛りあげようと奮闘した人たちの存在が確認できるからである。

『ようこそ、フランス料理の街へ。』によれば、弘前フランス料理研究会の初代会長である山崎は、1998年に弘前フランス料理研究会の一環として「フランス料理の街 弘前をめざして」と題したシンポジウムを行っている。また山崎は、メディアに出演する際、弘前を「フランス料理の街」として積極的にアピールを行った。

 さらに2003年には、社団法人弘前市観光協会 (現・社団法人弘前市観光コンベンション協会)が「洋館とフランス料理の街ひろさき」というキャンペーンを打ち出した。この大使を務めたのが、弘前フランス料理研究会にゲストとして参加していたフレンチシェフの三國清三である。三國のような世界的に有名なシェフが大使を務めたインパクトはそれなりにあったはずである。また繰り返しになるが、三國は山崎の弘前をフランス料理の街にするという活動を積極的に応援していた。

 このように弘前では、弘前をフランス料理の街として積極的に盛り上げようとした人たちの存在が確認できる。これらのキャンペーンによって弘前にはフランス料理を求める人が集まり、フランス料理が受け入れられる土壌を育んだ。そんな様子を見て「フランス料理屋をやるなら弘前がいい」と思ったシェフもいたのではないだろうか。

いい食材、環境を求めて料理人が弘前に集まった

 弘前の周辺で採れるいい材料や、その環境、風土の良さを求めて、フランス料理人が弘前に集まったことも考えられる。『ようこそ、フランス料理の街へ。』では、以下のような一文がある。

十八世紀末のフランス革命により、絶対王政が倒れると同時に仕えていた料理人たちが町へと 散った。 これがフランス料理の大衆化のはじまりである。状況は違えど、バブルがはじけホテルの厨房から町場に散る。あるいは都市で修業を積んだ料理人が食材や環境にこだわり、地方に出店する時代が到来すると山崎は確信していた。

 レストラン山崎のオーナーシェフである山崎が、ホテル法華クラブ弘前の料理長を辞して、弘前に自分の店を開くにあたって述べたものである。そのうち都市部で修行した料理人がいい食材と環境を求めて地方で店を開く可能性があるので、その時にロールモデルとなれるようにと自分を鼓舞したのである。

「フランス革命によって料理人たちが街へと散った」という一文も興味深い。フランス革命はフランスのグルメ化が一気に進んだ時期としてよく紹介されるが、その時と似たような流れが日本のバブル崩壊によって起こるのではないかと予想しているのである。

 前述のとおり、現存する弘前のフランス料理屋の多くが1990年代にオープンしている。また弘前の洋菓子屋の多くも、1990年代以降にオープンしていると考えられる。バブルが崩壊したのは1992年頃であり、時期が重なる。そもそも先の一文を述べた山崎が、バブルの影響で独立の道を選んでいる。他にもバブル崩壊によって、都市部の店やホテルで料理人、パティシエをしていた人が、弘前で独立を目指した例があるかもしれない。

 フレンチと洋菓子の街という評判が一度確立すれば、その後は店をオープンしたい人が自然に集まってくる。先代のフランス料理屋、洋菓子屋のおかげで、街の人はフランス料理や洋菓子の美味しさを知っており、需要はすでに作られているのだから。

洋菓子屋が多いのはフランス料理屋が多いことに付随してか

 洋菓子屋が多いのは、フランス料理屋が多いことに密接な関係があるだろう。

 今回いくつかの洋菓子屋を回ったが、店舗デザイン、ケーキのデザイン、ケーキのラインナップなどの点から、ここ10年、20年にオープンしたと思える店が多かった。昭和からありそうな洋菓子屋は1軒、2軒程度であった。洋菓子屋が増えたのは比較的最近、具体的には1990年以降だと考えられる。これはフランス料理屋が増えた時期と概ね同じ時期である。

 洋菓子屋が増えた要因も、フランス料理屋が増えた要因と概ね重なる。つまり、以下のような要因が複合的に関係して洋菓子屋が増えたのだろう。

  • シェフを育てる環境の存在(フランス料理屋と一流ホテルの存在)
  • いい材料、いい環境を求めて集まった
  • 洋菓子を受け入れる風土があった

 フランス料理のコースにデザートは欠かせない。フランス料理屋ではシェフがデザートを手掛けるか、パティシエを雇う場合がある。弘前のフランス料理屋がパティシエを雇い、育てたのだろう。また『ようこそ、フランス料理の街へ。』(丸山馨、弘前大学出版)によれば、弘前のパティスリーの先駆けと考えられる「パリ亭」(現在閉店)のシェフである三上は、前述の弘前フランス料理研究会に関係していた世界的シェフ三國とも親交があったという。弘前フランス料理研究会の存在が1つの洋菓子屋のオープンのきっかけになっている可能性がある。

 弘前のフランス料理文化のなかで実力をつけたパティシエが、いい材料といい環境が揃った弘前で独立した。これが弘前で洋菓子屋が多い理由の1つとして考えられる。

 さらに付け加えるなら、そもそも弘前は洋菓子屋が増える土壌があった可能性もある。1958年には青森の老舗菓子屋である「ラグノオささき」が洋菓子部門を弘前にオープンしている。このオープンは、青森コロンバンの弘前進出があってとのことされている。つまり、1958年には、弘前にはすでにラグノオと青森コロンバンの2つの洋菓子屋があったことになる。コロンバンといえば、日本の戦後洋菓子文化を育んだ店として欠かせない存在である。そんなコロンバンが弘前にも出店していた。このコロンバンとラグノオが、弘前の人たちに質の高い洋菓子の味を届け、弘前の洋菓子文化を育成したのだろう。ちなみにコロンバンは1988年に閉店しているが、ラグノオは今でも弘前に店がある。

 まとめると、弘前にフランス料理屋が多かったこと、格式高いホテル(法華クラブ)が存在したこと、戦後間もない時期からレベルが高い洋菓子屋があったこと、洋菓子に親しむ街の風土があったこと、これらが洋菓子屋が多い街弘前を形づくった要因になっているのではないだろうか。

おわりに

 弘前にフランス料理屋と洋菓子屋が多い理由については、本記事で様々な考察を述べたが、結局これだという理由は見つかっていない。いくつかのネット記事、文献を読み漁ったが、本記事で紹介した仮説を立てるのが精一杯であった。ともあれ、弘前をフランス料理の街にするべく奮闘した人がいたことは確かである。そのような人たちが存在したことや、その他の偶然が重なり、弘前は日本でも珍しい、フランス料理の街という稀有な地方都市になったのだろう。

 弘前といえば夏のねぷたと、春の桜が有名であるが、フランス料理屋と洋菓子屋は通年営業している。つまり弘前は、いつ訪れても面白い街であるといえる。さらに付け加えるなら、弘前は洋館が多かったり、バブル期を思わせるレトロ感のある街並みが残っていたりと魅力が多々ある。機会があったらぜひ、行ってみてほしい。とともに、弘前にフランス料理屋と洋菓子屋が多い理由を、調べてみてほしい。

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