要約・書評『クリーンミート 培養肉が世界を変える』|培養肉が普及することについて

 多くの動物を苦痛から開放し、環境問題や食糧問題解決の糸口になるかもしれない食べ物が存在する。一方でその食べ物は試験管のなかで作られた極めて人工的な食べ物だ。それが培養肉である。

 この不思議な食べ物を私たちは受け入れることができるのか。『クリーンミート 培養肉が世界を変える』はそんな疑問を突きつける。他方で本書は、試験管ミートの実態を紐解し、私たちが抱く漠然とした拒否感を解きほぐす。

目次

クリーンミートとは何か? なぜクリーンミートなのか?

 本書の内容を大雑把に説明すると、スタートアップ企業で革新的なことをやり遂げようとする企業家たちの苦悩や思いを描いたノンフィクションだ。

 主題はクリーンミート、及び細胞農業である。細胞農業とは牛肉やレザー、鶏肉や牛乳を、動物に一切危害を加えることなく、研究室のなかだけで生産する手法である。細胞農業を使って生産した肉が「クリーンミート」である。よく知られた言葉でいえば「培養肉」だ。

 それにしてもなぜ「クリーンミート」という呼び方なのか。何が「クリーン」なのか。一般的な肉は、食肉処理場で加工する際に付着する糞便によって、汚染のリスクがある。大腸菌やサルモネラ菌などがその代表例だ。一方で培養肉には糞便が付着することがないので、汚染のリスクがない。培養肉が「クリーンミート」と呼ばれるようになったのはこれが主な理由だ。

 動物の肉が汚れているとする思想はかつて日本にもあった。肉食が普及する前の日本では動物の肉を食べると穢れるという思想が存在していた。時代を超えて、動物の肉は汚れているとする思想が復活したのである。

 「クリーンミート」はキャッチャーでわかりやすい言葉であるが、動物の肉を汚いものであるとし、培養肉を「クリーン」としてしまうのは動物に敬意がないのではないか。排泄物はたしかに汚い。肉に付着して菌が繁殖すれば人間に害が及ぶかもしれない。しかし排泄は人間を含む動物の基本的な営みの1つである。排泄物はその営みの副産物だ。培養肉を”クリーン”なものとし、動物の肉を排泄物があるから”ダーティー”だとするのは、やや動物に敬意がないようにも思える。動物愛護の気持ちが強いはずなのに。

 「クリーンミート」にしたのはメディアに売り出すときにわかりやすい言葉だったからなのかもしれない。あるいは工業的畜産を色々な意味で汚いものだとしたかったのかもしれない。

クリーンミートは何を解決するのか

 研究室のなかだけで食糧を生産できるクリーンミートは、あらゆる問題を解決するとされている。具体的には、

  • 動物を殺さなくて済むこと
  • 環境に優しいこと
  • 汚染の心配がないこと

この3つの課題である。

 クリーンミートを製造する細胞農業は動物にほとんど危害を加えない。これが普及すれば、工業的畜産によって劣悪な環境で飼育されている多くの動物を解放できる。本書で紹介される細胞農業に挑戦する若者たちの多くが、動物愛護の観点から細胞農業に取り組むようになっている。彼ら、彼女らはより多くの動物を救う方法はないか、工業的畜産の苦しみから動物を解放する方法はないかと考えた末に細胞農業にたどり着いている。

 細胞農業は環境問題解決の一助にもなる。現在、畜産は環境問題の主要な原因だといわれている。食肉の生産には膨大な土地、水、肥料、石油が使われるからだ。動物用飼料の栽培のために多くの熱帯雨林が失われており、畜産業は温室効果ガスの最大排出の最大要因ともいわれている。クリーンミートはこれらの問題の多くを解決できる可能性がある。広大な土地も、大量の水や飼料もいらないのだから。

 細胞農業は抗生物質にまつわる問題を解決するかもしれない。現在アメリカで使用されている抗生物質の約80%が畜産動物に投与されているという。動物に抗生物質を投与するのは、病気の予防と成長の促進のためだ。しかしこれが一因となってか、人間にとって重要な抗生物質の一部が効かない例が増えているそうだ。最近では畜産動物に使用する抗生物質の使用量を減らす動きもある。クリーンミートには当然、抗生物質はいらない。そもそも生きていないのだから。

 そして細胞農業によって作られた培養肉は、細菌の汚染の心配もない。前述のとおり、動物の肉は処理の際に付着する糞便が原因で、サルモネラ菌や大腸菌が付着している場合がある。ゆえに加熱なしに食べることは到底できない。培養肉であれば、そういった心配はない。培養肉がクリーンミートと名付けられたのも、そういった理由からだ。

 このように細胞農業はあらゆる問題を解決するとされているが、他方で、大豆肉のようなフェイクミートでもこれらの問題を解決できるのではないかという疑問もある。試験管ミートに費やす膨大な金や人を、フェイクミートのクオリティを上げることにつぎ込んだほうが効率的なのではないか。

 本書に登場するスタートアップ企業はあくまで培養肉にこだわる。もちろん培養肉と平行してフェイクミートの開発に取り組む企業は存在する。一方でフェイクミートでは問題の根本的な解決にならないという。というのも現在アメリカのほとんどのスーパーでフェイクミートが売られているが、あまり人気がないし、肉の消費量を減らすことにはほとんど貢献してないからだ。この現状を考えると、肉を食べる習慣を変えるのは難しく、結局のところフェイクミートではなく、本物の肉を作らなければ意味がないのだそうだ。

クリーンミートの課題

 動物を守り、環境問題解決の一助にもなる細胞農業。ぜひとも早く普及させてほしいものだが、課題も多い。その主なものが価格、味、政府の規制、そして消費者の拒否感である。

 研究室で作られる肉は、味、風味、食感ともに、まだまだ動物の肉には及ばない。牛乳やヨーグルトや卵白などの筋繊維がないものや、ハンバーグ、チキンナゲットといった挽き肉はかなりのクオリティになっているそうだが、牛肉や鶏の胸肉はなかなか難しいようだ。

 価格も大きな課題だ。初期の頃よりはだいぶ低コストで作れるようになったが、まだまだ気軽に購入できるような価格ではないという。あるアメリカ企業は2016年に、世界初の培養ミートボールを作ったが、かかった費用は1200ドルであった。初期の頃に比べればだいぶ下がってきたが、まだまだ日常的に食べられるような値段ではない。

 規制の問題もある。美味しい培養肉が完成したからといってすぐに販売できるわけではない。研究室で作った謎の肉を販売していいか、販売する場合、肉という名前で売れるのか、それともあくまでフェイクミートなのか。食品として販売するには、様々な問題を巡って政府から許可をもらう必要がある。国によって食品に関する規制はまちまちなので、培養肉が世界中で普及するにはまだまだ時間がかかりそうだ。ちなみに日本であれば産地の表示が義務付けられそうであるが、培養肉の産地は研究室の所在地になるのだろうか。

 味、値段、規制などあらゆる問題をクリアし販売にいたったとしても、消費者が受け入れてくれるかどうかわからない。アニマルフリーで環境にも優しくて清潔な、まさに夢のような肉が完成したとして、その極めて人工的な食べ物を消費者は受け入れるだろうか。今のところやはり拒否感を示す人が多いようである。遺伝子組み換え作物を無意識に避けてしまうのと同じように、培養肉も直感的に避けてしまう人が多いようだ。

 この課題に対して本書では、培養レザーを先に普及させ、食べ物ではなく身につけるものから慣れてもらえば、培養肉も受け入れてもらえるのではないか、との見方を紹介している。あるいは培養肉が、現在消費されている多くの食品の生産方法と大して変わらないことや(この点については後述)、培養肉が環境に優しく安全な食品であることを伝え、拒否感をほどいてもらうことを目指している。

 最後につけ加えると、培養肉がもし仮に普及した場合、既存の食肉産業に関わる人たちが大量に失業する可能性がある。また職を失うかもしれない人たちの反発が培養肉普及の足かせになる可能性もある。これも1つの課題ではある。しかしこのような技術革新によると失業は古くから繰り替えされてきたことだ。本書では細胞農業が盛んになればその分野でまた新たな職が増える可能性があるとしている。

培養肉に対する拒否感が薄れていく

 培養肉に対する消費者の拒否感は大きな課題の1つであり、これを解決できるかどうかが培養肉普及の鍵を握っているといっていいだろう。

 この課題に対して本書は、そもそも身の回りの食べ物はすでに人工的なもので溢れていると述べる。たとえば普段食べているチーズは、遺伝子操作によって作ったレンネットを使って作っている。また私たちが普段食べている鶏肉や牛肉、乳製品はホルモン剤と抗生物質まみれの動物から採れたものである。畜産動物の飼料には遺伝子組み換え作物が使われている。また遺伝子組み換えしていないものでも、現在私たちが食べている植物や動物は、人間にとって都合の良いように品種改良がなされてきたものばかりである。

私たちがいま口にしている果物や野菜は(遺伝子組み換えこそされていないが)人為的な遺伝子選択による品種改良を経て、祖先が食べていたのとは似ても似つかないものになっている。

 オーガニック野菜も、放牧で育った家畜の肉も、私たちの祖先があれこれ手を加えて今に残ったものである。私たちはすでに極めて人工的なものを日常的に口にしている。培養肉がそれらと決定的な違いがあるわけではない。

 「培養肉も悪くないかも。これで環境問題の解決もできるなら」

 本書を読んでいると不思議とこのように納得させられる。

 もちろんまだ一般的に販売されているものではないので、その安全性はわからない。しかし私たちの身の回りには「今のところ問題ない」という食べ物や、1つ間違ったら絶大な危険があるが便利だから利用しているものがたくさんある。私たちはリスクと折り合いをつけることで、便利な人生を享受している。そう考えると多くのメリットがあり、試験官のなかで人間が好きに手を加えられる培養肉は、心配するに足らない存在に思えてくる。

価格が最大の課題か

 個人的な意見をいえば、培養肉の最大の課題は価格にあるのではないかと思う。美味しいものが安く買えるなら、それがたとえ試験管のなかで作られたものでも、喜んで買う人がいるのではないか。少なくとも私は安ければ積極的に買いたい。

 現在日本でも大豆を使ったフェイクミートが販売されている。すでに本当の肉と見分けがつかないくらいの出来になっているが、人気があるようには見えない。

 フェイクミートの人気が今ひとつなのは、結局のところ価格の問題のように思える。現在見られる代替肉は、普通の肉の2倍か1.5倍の価格だ。動物愛護や環境保護に貢献しているという満足感のために、食費を上げられる人は決して多くはないだろう。

 本書によれば、アメリカでもフェイクミートの人気は今ひとつだそうだが、その理由もきっと価格にあるのではないか。NEXT MEATSのWEBメディアによると、アメリカでもフェイクミートの価格はまだまだ肉の2倍〜4倍の価格だそうだ。(植物性肉が動物性肉より安くなるのは意外と早い?, What’s NEXT powerd by NEXT MEATS)肉の一大消費国のアメリカで、わざわざ割高な食品を選ぶ人は少ないだろう。

 フェイクミートをはじめ、培養肉を低価格で提供するのは簡単ではないだろう。細胞農業の従業員にも生活がある。最低限の利益は確保しなければいけない。しかし、だからといって利益やブランディングを優先して、普通の肉の2倍、1.5倍の価格で売りつけるなら、環境保護や動物福祉はいつまでたってもエリートの道楽だとみなされてしまう。

 私たちが心配しているのは目下の生活である。いつか起こるといわれている環境問題や、遠くの動物の尊厳を考えられるのは、自身の生活や近親者の生活の心配がなくなってからだ。培養肉で世界を変えようとするなら、目下の生活に影響を与える大きなインパクトが必要だ。つまり、どうにか低価格を実現する必要があるのではないだろうか。

培養肉が普及した後の世界について

 本書では、最後の章でクリーンミートが普及した世界について言及している。少し長いが引用する。

 そこで思い浮かぶのは、これまでの食肉が(すべてではなく大部分が)クリーンミートに取って代わられた世界だ。その世界には、あい変わらず大量の肉を消費する人がいる。だが、その肉は殺された動物のものではなく、ほとんどは培養肉だ。一方で、殺される前に良い扱いを受けた幸福な動物の肉を、ときたま楽しむという人もいるかもしれない。ちょうど、リクリエーション目的で、あるいは(アーミッシュのように)すべての移動目的で、いまでも馬が引く馬車を利用する人がいるように、その世界にも殺された動物の肉を求める人がいるだろう。畜産動物はまだいくらか残っているが、工業的畜産は消滅しているだろう。家畜はいまよりずっと数が減り、いつか「家畜」ではなくなって、感傷的な理由で、あるいは人間のペットとしてだけ、存在するようになるだろう。

 培養肉が普及した世界が訪れるかどうかはわからないが、もし仮に訪れた場合、その世界では工業的畜産によって飼育された動物を食べることはなくなっており、従来の家畜動物はペットとして飼われたり、快適な環境で飼育して時々それを食べる人がいる程度には残るだろうとしている。

 「殺される前に良い扱いを受けた幸福な動物の肉を、ときたま楽しむという人もいるかもしれない。」としているが、培養肉が普及した世界で、食べる目的で動物を殺すことなんて本当にできるのだろうか。それは微妙な気がする。培養肉が普及し、一般的になった世界では、どんな動物であれ、動物を食べることは非倫理的な行為とみなされるようになるのではないだろうか。ちょうど、現在犬を食べることが非倫理的であるとみなされているように。

 かつてアジア地域では、犬は食用にされていたが、ペットとして飼うことが当たり前になってから、犬食は非倫理的行為とみなされるようになり、今ではほとんど見られない。そもそも想像もできない。

 実話を題材にした映画『ブタがいた教室』では、小学校のクラスで命を食べることを学ぶために飼育された豚は、最後に食べる予定だったが900日という長い時間を共に過ごした結果、食べることはできなくなった。

 現在アメリカでは、鶏をペットとして飼う人がいるという。培養肉の普及とともにこれまで食用だった牛や豚、鶏などの動物が、ペットとして飼育されるようになったら、つまり犬や猫のように伴侶動物になったら、それらを食べるなんてまったく想像できなくなるだろう。

 個人的には、人が何を食べようが本人の自由で、個人の幸福追求権は他人の幸福追求権との兼ね合いのなかで尊重されるべきだと思っている。しかし細胞農業が主流になり、動物を殺さない生活が日常になるなら、動物を殺すことは極めて例外的な場合のみとされるのではないか。著者は「良い扱いを受けた幸福な動物の肉を、ときたま楽しむという人もいるかもしれない」と述べるが、良い扱いを受けたからといって殺生が認められるとは思えない。 

 結果的に、私たちはあらゆる動物を食べるために殺すことはなくなるだろう。植物も痛みを感じるとする意見もあるので、植物を食べなくなるのも時間の問題かもしれない。一方で私たちは天井裏を駆け回るネズミや田畑を荒らすイノシシ、土砂災害の原因となる場合があるシカを、これからも駆除するに違いない。動物の肉を食べるのは害獣駆除によって得られたジビエのみとなる。

 動物の命は、活かすも殺すも人間しだいなのである。細胞農業は、現在不必要に奪われている多くの動物の命を救う。それは間違いない。しかし他方で、本書『クリーンミート』は、そして細胞農業の話題は、私たち人間がいかに身勝手に生き物の命をコントロールしているか、その事実を突きつける。他方で人間はそのようにしてしか生きることができない。私自身もそうやって完成した文明の上に立って生きている。その矛盾性にどう向き合っていくべきなのだろうか。『クリーンミート』を読みながらそんなことを考えた。

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