日本で最初の喫茶店は、1888年に鄭永慶(ていえいけい)が開いた「可否茶館」だといわれている。これ以降、日本には様々なカフェが生まれてきた。
純粋にコーヒーを楽しむカフェから、音楽を聴くため名曲喫茶、メイドさんが接客してくれるカフェ、そして昭和の水商売系カフェなど、実にいろいろなカフェが存在した。
昔から現在でも変わらぬ姿を残しているカフェもあれば、昭和に廃れたカフェ、現代新たに生まれたカフェなど、日本には様々なカフェがある。
そんなカフェを、コーヒーを日本人の近代性と民主化の象徴である述べるのが、アメリカの文化人類学者であるメリー・ホワイトの『コーヒーと日本人の文化誌』である。
メリー・ホワイトは日本社会、都市空間、教育、食文化を研究対象にしており、本書はそんな著者の40年以上に渡る日本の喫茶店・カフェの観察から生み出された一冊だ。
その内容はカフェの紹介や、日本のおけるコーヒーの受容の歴史をたどるだけではなく、日本の都市空間と社会にとってカフェの役割にまで考察は及ぶ。
たとえば日本にはなぜ普通にコーヒーを飲むためのカフェからメイドカフェやネットカフェなどいろいろな形態のカフェが存在するのか?
全自動のエスプレッソマシーンがあるにもかかわらず、一杯ずつ時間をかけてコーヒーを淹れるお店が多いのか?
なぜ日本のカフェは一人で時間を過ごす人が多いのか?
などなど日本のカフェに特有の事柄について、日本の都市の特徴や日本の国民性、明治時代以降の日本の近代化の歩みなどと重ね合わせながら、日本人とコーヒー、日本人とカフェ、日本の都市とカフェを考察している。
何もしないためにカフェを利用する人々
本書の第七章では家庭でも職場でもない「第三の場所」としてカフェが利用されていることを論じている。たとえば、カフェの利用用途としてみられたのが、「何もしないために利用する」「一人きりになるために利用する」である。
こういった人々が存在する理由を本書では高密度で張り詰めた日本の都市空間に求める。人口密度が高く、時間に厳しく、また残業や休日出勤が当たり前である日本社会において、カフェは束の間一人で自分だけの時間を過ごすための場所であるのだという。
日本のカフェは、常日頃感じている社会的な緊張感からの解放をもたらしてくれる。気を配ることをやめることができるのだ。そこは、家庭と職場(や学校)とは関連性のない場所で、家庭の感情的な濃密さも、職場にある重要なスケジュールや職務もない。つまり、何もせずに一人でいられる場所である。
フランスの思想家であるジャック・アタリは「食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか」という著書のなかで、テレビやスマートフォンの普及、家族内での食事の時間ズレなどから、食事の場でのコミュニケーションが希薄になっていると嘆いた。
また「サードプレイス」という概念の提唱者であるアメリカの社会学者レイ・オルデンバーグは、昔は、街にあるカフェが人々の交流の話として機能していたが、最近のカフェでは人々は仕事に没頭しているか、イヤフォンをつけてコミュニケーションをシャットアウトしているかであると、現代のカフェの様子を嘆いていた。(サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」)
日本でも1983年に足立己幸氏の『なぜひとりで食べるの』という孤食を題材にしたものが出版され、孤食が社会問題として認識されるようになった。
一方で、日本のカフェは張り詰めた日常の人間関係から逃れるために、つまり誰とも会話しないために利用する人がいる。コミュニケーションが減っていると言われているが、コミュニケーションをする必要がない場所を求めている人が存在するのだ。不思議な現象が起きている。
とにかくメリー・ホワイトは都市におけるカフェは、張り詰めた日常の退避場所として役立っていると考察する。
まとめ
本書は日本のカフェの多様性と、日本の近代化の歩みや国民性、都市空間と重ね合わせた、興味深い一冊である。
マスターが淹れるコーヒーを楽しむためのカフェから、ネットカフェ、メイドカフェまで、日本にこれほどまでにいろいろなタイプのカフェが存在するのはなぜなのか、その考察の手がかかりを提示してくれる。
また何もしないためにカフェを利用する人がいるという指摘も面白いものである。日本の都市での生活がいかに張り詰めたものであるかを考えさせられる。これは都市に現存する社会問題も考える手がかりになりそうだ。
1つ付け加えるなら批判的な論考も欲しかったところだ。著者のノスタルジーもあるからなのか、全体的に日本社会と日本のカフェを肯定的に論じる点が多かった。たしかにカフェは日本人の、特に都市生活者のオアシスになっているが、日本人は世界有数のコーヒー豆の輸入国であるにもかかわらず、コーヒー豆の倫理的調達や環境に配慮した栽培などに関心がある人が少ない。他にもカフェと日本人、コーヒーと日本人を深堀りすれば、批判的にならざるをえない点はたくさんあると思われるが、批判的な内容な論調はほぼなかった。外から日本の社会を観察する人間なのであるから、日本人とコーヒーに対する批判的論考も読んでみたかったと、わがままにも思う。