【書評】『エコ・ロゴス―存在と食について』(雑賀恵子 著)

『エコ・ロゴス―存在と食について(雑賀恵子)』とはいったい何なのか?

タイトルからではまったく内容が想像できないが、ものすごく簡単にいえば、生命の循環から、人間の命、いまここにるわたしの命、その在り方を考えるエッセイだ。

あくまでエッセイという体裁をとっており、わかりやすい主張があったり、主張のためのエビデンスが並べられたりといったことがあるわけではない。言葉のリズムだったり、思想の旅を楽しんだりといった、思想的エッセイといえる。

とっつきにくい部分も多々あるし、筆者もまだまだ咀嚼しきれていない部分がある。それでも本書は、人間という存在について、食べることについて、深く考察させてくれる一冊であることは間違いない。

本ページでは、簡単に本書『エコ・ロゴス』の内容を紹介できればと思う。

食べることは殺すこと

本書では食べることが考察される。

われわれは食べなければ死ぬ。そして食べるという行為は他の生物を殺す行為でもある。

わたしたちが食べるものは、ほとんどすべて、他者の死体、あるいは死体の一部である。おそらく、食べ物の他で生命体に由来しないものは水と塩だけであろう。菜食主義であろうとなであろうと、生命体としてのわたしたちは、他の生命体の死と引き替えにしか生命を維持できない。
(中略)

食べるということ。物質が生命の光を灯したとき、運動の持続こそがそれの志向するものであり、死を恐れたにもかかわらず、生命はなぜ生命活動の中に他者の死を組みこんだのだろう? 他者の死を自らの生に組み込む、ということは、同時に自分の死を他者の生の前提にすることでもあるのに。

生のなかに死があるのではなく、死の中に生が孕まれているのではないかという。たしかに、われわれの生は他者の、他の生物の死の上でなりたっている。生物としてのわれわれは他者を殺し、その一部を自分の体内にいれることで、生をつないでいるのだ。

カットされた食材しかみかけることがない私たちは、その肉が、以前は私たち人間と同じように動き、声を出し、血を通わせていた生物であったということはほとんど考える機会がない。しかし私たちが食べているものは、肉であれ、魚であれ、穀物であれ、紛れもなく生物の1つである。そして人間は、それを殺し、食べやすい大きさにカットし、体内に取り入れることで生をつないでいる。まさに今この瞬間も。

生きることは食べることである。食べることは他者を殺すことである。生きることは殺すことなのだ。

人肉食は根源的な悪ではない

人間は何かを殺し、食べることで生きる。では人間が人間の肉を食うことはどう考えられるか。人肉食は極めておぞましい行為とされる。想像すると吐き気を催す人もいる。映画やドラマでは、食べた肉が人間の肉だと知らされたとき、その人が吐き気を催しているようなシーンがある。

人肉食に対して抱く嫌悪感は、人間が根源的に、先天的にもっているものだと考えている。しかし本書では、人食に対してわれわれ感じる嫌悪感は、根源的なものではないと論じている。

おそらく、人肉禁忌になんら根拠はなく、人肉禁忌そのものも、形式(法)の問題、である。つまりは、根源的な、おぞましい悪でもなんでもない。

世界にはあらゆることが起こりうる。
起こってしまっている。
わたしたちは、そこに生きている。
換言すれば、善悪は、言語=形式によって決定されるのである。

実際、人肉食はあらゆる地域で起きている。日本だって例外ではない。船長が、船員の死体を食べて生きのびた「ひかりごけ事件」もそうだし、インパール作戦やレイテ沖海戦でも極限状態の兵士が仲間の死体を食したという記録はいくらでもある。

海外に目をやれば儀式の一環として生贄に捧げた人を食べたり、弔いとして死者を食べた例はいくつもある。飢饉を例にとれば、日本人だって、ヨーロッパ人だって、空腹に耐えられず人を食べた例はいくらでも見つけることができる。

また類人猿においては、雑食のチンパンジーは、ヒヒやアカコロブスといった霊長類を捕食するし、場合によっては同種の乳児を食べることもあるという。

同種食いの嫌悪が、根源的に備わっているものであったら、ここまで同種食は起きていないだろう。本書において論じられる、「おそらく、人肉禁忌になんら根拠はなく、人肉禁忌そのものも、形式(法)の問題、である。つまりは、根源的な、おぞましい悪でもなんでもない。」というのは、一定の説得力があるように感じる。

食人・殺人の善悪の追求は無意味である

仮に、食人に善悪がないとしたら殺人はどうだろうか。

先に説明の通り、食べることは殺すことである。食べることは殺すことを内包している。人肉食を根源的な悪と断定できないなら、食べることに内包される殺人も、悪とは断定できないのだろうか。

この疑問について『エコ・ロゴス』では、「殺害を禁止する理由を見つけ出すことは無意味である」と書いている。

常食としてではないだろうが、同類を食べていたことを否定する理由はないし、近い歴史を見ても、動物性タンパク質を得るための動物が容易に手に入らないような自然環境条件の下で生きているひとたちのなかには、たとえそ れが宗教的儀式や、敵への心理的報復ないしは超克であるなどといった理由付けがなされようとも、食人を風習としてもつひとたちがいる。

とするならば、完全な死肉食者(スカベンジャー) でないかぎり、肉を得る前段階としては殺害行為があるわけで、その対象をどの範囲まで許容するか、ということについて、行為に先立つ禁止理由は考えにくい。

結局のところ、人間は食うために人を殺すことがあった。食人が悪ではないのなら、食べるための殺人も根源的に悪とはいえない、ということだろう。

だからといって、殺人の禁止が無意味であるというわけではない。単にそれは根源的な意味で、殺人の禁止が無意味としているだけだ。

殺害を禁止する理由を見つけ出すことは、無意味である。
それは、殺人の禁止が無意味である、ということではない。世界が存在していること、存在者が存在していること、そのことは意味というものでは抑え込めない。なぜ、生命体が存在するのか、なんのために存在しているのか、なぜ生きるのか、これをわたしたちの言語で抑えることは できない。であるから、その存在を殺害することの禁止の理由や根拠を見つけ出そうにも虚無へと拡散してしまうほかない、ということである。

たとえばチンパンジーがチンパンジーを殺すことを断罪することはできない。

チンパンジーがチンパンジーを殺してはいけない理由を見つけることは、可能かもしれないが、見つけられたとしても、それは結局、人間の目線の「チンパンジーがチンパンジーを殺してはいけない理由」でしかない。チンパンジーにとって、人間が人間の言葉で勝手に考えた殺害禁止の理由は無意味でしかない。

同じ生物種としての人間も同じだろう。人間が人間を殺してはいけない理由は、言葉ではいくらでも考えることはできる。「他人の人生を奪ってはいけない」「殺される不安をいだきながら生きるのはは大変」など、殺人を禁止すべき理由は、言葉ではいくらでも思いつく。

しかし、人間をチンパンジーと同じく、この地球に存在する1つの生物と考えるとき、殺人を禁止する理由を考えることはできないし、それは無意味だ、ということだろう。というのも「殺すこと」は「食べること」とセットになった行為であり、生きるならば、殺すことは避けられない行為だからだ。

殺人は超越的な存在によって禁止されるべき

もちろん、だからといって殺人を容認するということではない。あくまで殺人を禁止する、根源的な理由を探すことが無意味である、というだけだ。

殺人を禁止する根源的な理由を問えない。しかし殺人が禁止されない世界、いわゆる原始的な世界であったら、われわれは安心して暮らすことができない。いつ殺され、食われるかわからない社会だったら、子孫繁栄や経済活動にいそしむことはできない。

ではどうすればいいのか? 

そこで有効になってくるのが、超越的な存在だという。たとえば神や国家のような。

食べる、ということにおいていは、他者の殺害を完全に回避できない。殺してはならない、という禁止に従うことは、人間存在の根源なるものに求められないのである。
したがって、生きること、すなわち他者の殺害を潜在的に含有した食べることと、他者の殺害を禁じる装置として、超越的なものによる絶対禁止というものが有効になってくる。
(中略)
繰り返すが、存在そのものが言語以前のもの、あるいは言語を超えたものであるから、殺してはならないことの理由が、言語で、つまり論理で語ることは出来ない。だから、たとえば、超越的なもの、神が禁しているからだ、と反問を許されない絶対的禁止にしなければならないのである。

神のような絶対的な存在が殺人を禁止している。理由はとにかく神が禁止しているから殺人は絶対に禁止なのだという解釈にしておくことが有効である。むしろそうすることでしか殺人を禁止することはできないというわけだ。

ただし近代国家において、神の実効性は薄れている。神に代わる超越的な存在として近代が作りあげたのが国家だあり法だ。国家が法律によって殺人を禁止する。自然権や生存権を根拠に、殺人を法によって禁止する。

国家が死刑や戦争を行う権限を掌握しているのは国家が何よりも法の執行すなわち死を命じる主体であり、主権であり、超越的存在であることを考えるときに役立つ。

一方で結局、国家の超越性は、自国にしか通用しないものであるから、その超越性は限定的である。国家は決して神のような超越的はない。

国家というものは必然的に境界を持ち、内部と外部を切断する。(中略)国家が超越的存在としてふるまえるのは、この境界の内部、すなわち<われわれ>に対してであって、そのために、国家は<われわれ>とはなにであるかを定義づけるのである。

神の超越性は近代になって薄れた。その代わりとして登場した国家の法も、結局は自国の内部にしか通用しないものであった。

死刑、戦争、自殺はなぜ禁止されるべきなのか?

戦争、死刑、自己の殺害である自殺などの殺害はどのように禁止されるべきなのだろうか。本書では死刑も戦争も禁止すべきと論じている。その主張は拠り所はなんであろうか。

著者はその根拠として「生きる場所(oikos)に働く論理(logos)」をあげる。タイトルである「エコ・ロゴス」にかかることばだろう。「生きる場所(oikos)に働く論理(logos)」とはなにか?

生きる場所(oikos)に働く論理(logos) それは、固有性を持った存在が多様な他者とともに関係性の連関のなかで、生きること、である。エコロジー(Ökologie)とは、生きること、だ。生命体はこの倫理に依って、動いている。
(略)
わたしたちは死すべきものであるのだから、生は他者の死との連関の中で繋がれているものだから、だからなのだ、根源的な殺害の禁止は絶対的なものであり、つまり他者の殺害ばかりではなく、自己の殺害の禁止をも含むのだ。

われわれの生はいろいろな生物を介すことによって、過去から現在に繋がれてきた。他の生物を食べることによって、他の生物を自分の身体に取り込み、命をつないできた。

これはつまり、数え切れないほどたくさんの生命が、自分のなかに宿っているともいえる。またそもそも、人間は数え切れないほど数多くの細胞からできている。その細胞の1つ1つが、命をつなぐために活動しあっている。

人間の命は、そういった数多くの他者との連関のなかで存続している。「固有性を持った存在が多様な他者とともに関係性の連関のなかで、生きること、である。」はそういうことだろう。

そしてわれわれ人間は、そのうち自然に死ぬ。放っておけば死ぬ。他の人間の介在がなくても、死ぬときは死ぬ。そして死んだあとは、他の生物の一部に取り込まれる。他の多くの生命と関わり、そして自然に死んでいゆく。これが「生きる場所(oikos)に働く論理(logos)」ということだろう。

殺害は「生きる場所(oikos)に働く論理(logos)」に反する

一方で死刑、戦争、殺人は人間の命を意図的に断つことだ。生き延びるために死体を食べることとはまったく性質が違う。だから殺人、死刑、戦争は「生きる場所(oikos)に働く論理(logos)」に反することとして、禁止されるべきものだと主張しているのだろう。

戦争に反対するのは、他者を殺害し、自己を殺害の対象におくことを強要されるからだ。(中略)
死刑に反対するのは、国家が殺人を執行するという矛盾からでもあるが罪を犯した者が振り返り、悔いる機会を奪うからでもある。

最後に本書は、言葉を持ち、歴史を語るわれわれは、言葉によって「生きる場所に働く論理」を語るべきだと論じている。死刑によって人生を奪うことを、著者が批判するのは、反省する機会を与え、歴史を語るべきだと捉えているからなのだろう。

殺害禁止の論理と倫理

先に、「殺害の理由は論理で語ることはできない」という部分を引用した。一方で「殺害は、生きる場所(oikos)に働く論理(logos)に反するから殺害は禁止すべきだ」という部分も引用した。

つまり、殺害を論理では語れないとする一方で、生きる場所に働く倫理を根拠に殺害を禁止すべきと主張しているのは、どこかつじつまが合わないような気がする。しかしこれはおそらく「論理」と「倫理」の違いなのだろう。

生存権や主権などを人間の論理で殺人禁止を語ることはできないが、生命の倫理でなら殺害禁止を語ることはできる、ということなのかもしれない。

本書で主張される殺害禁止の論理と倫理について、筆者はまだ咀嚼できていない部分がある。知りたい方はぜひ、本書を読んでいただければと思う。