サードプレイスとは何か?|レイ・オルデンバーグ『サードプレイスーコミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』の書評とサードプレイスの特徴など

ここ最近スターバックスが増えることについて少し違和感があり、スターバックスについて調べているのだが、その過程で必ず目にするのが「サードプレイス」という言葉である。

「スターバックスの人気の秘密はサードプレイスを提供したことにある」と説明されることが多い。

しかしスターバックスは「サードプレイス」という社会学的な用語を掲げられるほど、社会的な場所なのだろうか。そんな疑問があったので、「サードプレイス」という言葉が提唱されたレイ・オルデンバーグの著書『サードプレイス: コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』を読んでみた。

本記事では本書で紹介されているサードプレイスの概要を説明するとともに、本書の感想についても紹介していく。

サードプレイスとはどんな場所なのか? 具体的な特徴

サードプレイスは、オルデンバーグが提唱した概念であり、「第三の場所」や「第三の空間」などと訳される。ファーストプレイス(第一の場所)は家で、セカンドプレイス(第二の場所)は職場。そしてサードプレイス(第三の場所)は家でも職場でもない、自分が最もくつろげる場所ということになっている。

では具体的にサードプレイス(第三の場所)とはどんな特徴をもった場所なのか。その特徴をまとめて説明した部分を引用する。

サードプレイスは中立の領域に存在し、訪れる客たちの差別をなくして社会的平等の状態にする役目を果たす。こうした場所のなかでは、会話がおもな活動であるとともに、人柄や個性を披露し理解するための重要な手段となる。サードプレイスはあって当たり前のものと思われていて、その大半は目立たない。人はそれぞれ社会の公式な機関で多大な時間を費やさなければならないので、サードプレイスは通常、就業時間外にも営業している。サードプレイスの個性は、とりわけ常連客によって決まり、遊び心に満ちた雰囲気を特徴とする。他の領域で人びとが大真面目に関わっているのとは対照的だ。家とは根本的に違うたぐいの環境とはいえ、サードプレイスは、精神的な心地よさと支えを与える点が、いい家庭に酷似している。

また本書で説明されている特徴を細かく列挙していくと以下のとおりになる。

  • 社会的な身分や職業に関係なく、人が集まれる
  • 自然な会話が生まれる
  • 仕事や家庭などにおける身分や立場、役職など関係なく振る舞える
  • 自分語りや説教など、聞いていて退屈な話をする人がいない
  • 着飾らなくてもいい
  • 常連がいる
  • 家の近所のようなアクセスがいい場所にある
  • 地味で目立たない店構え
  • 適当な会話で盛り上がることができる(遊びの雰囲気がある)

本書では、特に会話が生まれることが重要であると主張している。

サードプレイスは中立の領域に存在し、訪れる客たちの差別をなくして社会的平等の状態にする役目を果たす。こうした場所のなかでは、会話がおもな活動であるとともに、人柄や個性を披露し理解するための重要な手段となる。

具体例として紹介されているのは、18世紀のイギリスにみられたコーヒーハウス、イギリスのパブ、フランスの歩道のカフェなどだ。

日本でいえば、小規模な居酒屋やバーが当てはまるのではないだろうか。本書の最後には、日本の居酒屋の研究者であるマイク・モラスキー氏による解説が掲載されているのだが、彼も、日本においてのサードプレイスについては、赤提灯や大衆酒場のような庶民的な居酒屋が当てはまるのではないかと述べている。

サードプレイスの特徴について少し解説すると、たとえばサードプレイスとなるような場所は、日雇い労働者や塗装業者のようなブルーカラーでも、弁護士やIT企業の役員のようなホワイトカラーでも、職業や役職などに関係なく誰でも利用でき、そして誰もがフラットに会話できるような場所である。

その店はオシャレな外観をしておらず、たいていは地味である。利用するのに着飾る必要はないなく、普段着でいい。

店内での会話は、くだらない冗談から政治的な話題のような、教養を要する話題まで様々であるが、説教をする人や長ったらしい自分語りをする人もいない。

気軽に立ち寄ることができ、常連や店主とざっくばらんに会話し、好きなときに帰ることができる。そしてまたいつでも入店してもいい。自宅とはまた違う、くつろげる場所である。

サードプレイスはあくまで概念である

サードプレイスの特徴については、他にも細かい条件がいくつか挙げられているが、すべての条件を満たすような場が本当に存在するかは疑問である。オルデンバーグは、実際にそういう場所が存在したと説明しているが。すべてを満たさしていなくてもサードプレイスになる場合があるとも主張している。

そもそもサードプレイスはあくまで概念であり、読者がサードプレイスをいかに解釈するかによって、そのありようも変わる。同じ居酒屋であっても、ある人によってはサードプレイスだが、ある人によってはそうではない、ということがありえる。また国や地域によっては、コインランドリーやドラッグストアがサードプレイスになるとも述べている。

スターバックスはサードプレイスとは少し違う

ちなみにサードプレイスという言葉は、スターバックスのCEOであるハワード・シュルツを使用したで有名になった。スターバックスの公式サイトには今でも、スターバックスがサードプレイスを提供していると記載している。

しかし本書を読んでみるとスターバックスは、サードプレイスとはちょっと違うことがわかる。

会話の有無だ。サードプレイスの特徴の1つとして重視しているのは、客同士や店主との会話だ。利用者はサードプレイスとなる場所で、会話をすることで地域住民のことを知ったり、ストレスを発散させたりする。

一方でスターバックスでは会話をすることがほとんどない。スタッフと会話をすることがあるかもしれないが一言二言。挨拶プラスアルファくらいでしかない。初対面の人と会話することはまずないし、常連同士だったとしても会話をすることはまずないだろう。

自宅とは違う、くつろげる場所という意味では、スターバックスもサードプレイスの条件に当てはまるのかもしれないが、ホームページに堂々と掲載できるほどではないだろう。このことは著者であるオルデンバーグ自身も、『お望みなのはコーヒーですか?』という本のインタビューのなかで語っている。スターバックスはサードプレイスではないと。

※参考:『お望みなのはコーヒーですか?(ブライアン・サイモン 著)』要約と書評|スタバの批判的考察から消費社会を考える一冊

なぜサードプレイスが必要なのか? サードプレイスの機能について

サードプレイスがあることによって人びとはどうなるのか、サードプレイスがある地域はどうなるのかについて解説する。

サードプレイスによって個人が受ける恩恵について

サードプレイスがあることによって個人はどんな恩恵を受けられるのだろうか。本書が挙げているのが、以下の3つである。

  • 目新しさを与えてくれる(退屈な日常生活にない新たな刺激を与えてくれる)
  • 健全な人生観をもたらす
  • 心の強壮剤となる

1つの目の目新しさは人生のおける刺激のことである。毎日家と職場の往復では刺激がない。しかしサードプレイスのような職業も役職も様々な人たちがざっくばらんに話し合えるような場所がある、そこで新しい情報や価値観と出会える。それが新しい刺激となって人生に張り生まれる。

2つの目の人生観であるが、本書によるとサードプレイスにおける知識が高い人との交流をつうじて、健全で前向きな人生観が身につくという。本書では以下のように説明している。

サードプレイスは、幅広い層の人びとがいる状況で気晴らしと交流とを組み合わせ、成員の集合知を提供することによって、健全な人生観をもたらすうえで役立っている。

本書では単に「人生観」とだけ説明されており、これが具体的にどんな人生観なのかはわからないが、物事を前向きに捉える価値観だと考えられる。簡単な言葉でいえばポジティブシンキングか。

最後、3つの目はサードプレイスが心の強壮剤になるというものだ。つまりサードプレイスの存在は、精神衛生的にもいいということだ。もっともなことだろう。家と職場の往復で、家族と職場の人としか交流がない人よりも、行きつけの居酒屋やバーがあって、気軽に会話できる仲間がいる人のほうが、精神的にも健康であることは間違いない。

地域社会や政治面での恩恵について

サードプレイスの存在は個人にとってだけでなく、その地域社会にとっても恩恵がある。その恩恵を大きく2つにまとめると以下のとおり。

  • 民主主義にとって重要な、人が集まり会話する場を提供する
  • 地域社会での連携を生み出し、寛容な社会を作りだす一助となる

まず1つ目、サードプレイスの政治的な役割について。

サードプレイスは人が集まり、自由に議論する場を提供する。サードプレイスは集会の自由と表現の自由を担保する場なのだ。

アメリカでも日本でも、人が集まるのは自由である。公共の福祉に反しない限り、誰が、いつ、どこに、何人集まり、何を話しても咎められることはない。だからサードプレイスが提供する人が集まる場の重要性は感じにくい。

しかし時代や国が変われば、食事で人が集まることも禁じられている場合がある。たとえばヒトラーは集会禁止令を出していたし、1983年の東ドイツでは人が集まると反対意見の温床になるため飲食店の数は少なかった。また植民地時代のアメリカでは、酒場における討論が独立運動の大きな要因になったという。

酒の席であったとしても、人が集まり、地域の生活や政治に関してああだこうだ自由に話し合える場所があるのは、民主主義を育む上で非常に重要である。

ゆえにサードプレイスを奪うような都市計画や規制の強化は、「民主主義に欠かせない、友人や隣人の気軽な集まりを阻止する」と、本書では主張する。

そして2つ目、サードプレイスの存在が寛容な社会を作りだす一助となるについて。

サードプレイスのように、様々な立場の人たちが集まり、自由に会話できるような場所は、地域住民との交流の場になる。地域住民と顔見に見知りになることによって、その地域に対する帰属意識を向上させる。

「とびきり居心地よい場所」の本領であるコミュニティ構築機能に充てることにする。たいていの場合、わたしはそのような場所を(第一の家、第二の職場に続く)「第三の場所」と称するが、それらはインフォーマルな公共の集いの場だ。こうした場所は、あらゆる人を受け入れて地元密着であるかぎりにおいて、最もコミュニティのためになる。サードプレイスの一番大切な機能は、近隣住民を団結させる機能だ。

またサードプレイスのような、世代や職業問わず、様々な人が集まる場所の存在は、様々な境遇の人とのコミュニケーションを生み、様々な境遇の人を思いやる姿勢を養うという。分断ではなく、団結させる役割も担うのだ。

たとえば日本のような高齢化社会において、多数派である高齢者が、少数派である若者を尊重した取り組みが行われるのを助ける役割を果たす。

一人ひとりが社会に対して、隣人に対して思いやりを持てるようになることで、全体として寛容な社会を作る。それがサードプレイスの効能であるとオルデンバーグは主張する。

【書評】サードプレイスは個人にとってというより、民主主義や地域社会にとって重要なのである

サードプレイスについて、ネットには解説がたくさんあるが、その多くが「息抜きできる場所」のような個人の恩恵に焦点をあてるか、もしくはスターバックスの成功と重ねて、マーケティング用語の1つとして使うかのどれかである。

しかしオルデンバーグの主張を読むと、サードプレイスの重要性は民主主義や地域社会にとって重要な役割を果たす部分にあるということがわかる。

実際、「サードプレイスの一番大切な機能は、近隣住民を団結させる機能だ。」と書いている。

ゆえに本書は個人としてサードプレイスをどう見つけるか、どう確保するかといった自己啓発的な内容ではない。そうではなく、サードプレイスとなるような場所が社会にとっていかに大切なものであるかを訴えるものである。

社会の問題を個人の問題にしてはいけない

レイ・オルデンバーグはサードプレイスの問題以外にも、社会の問題を個人の問題にしてしまう最近の風潮についても言及している。

「ストレスの原因は社会にあるが、その治療は個人で対処するもの」という見解に傾いている。強いストレスは現代生活における不可抗力の一つであり、社会体制に組み込まれているのだから、それを緩和するには本人が体制の外に出るしかない、と一般には見なされている。楽しませよう、楽しもうとする努力さえ、他者との競り合いになってストレスを引き起こしがちだ。人は家の外の世界で「病気になり」、家に引きこもることで「治る」という見解に、わたしたちは危険なまでに近づいている。

個人が日々の生活から感じるストレスは、公園や図書館、行きつけの飲食店のような息抜きできる場所が、近所にないからかもしれない。また道路が狭く渋滞ばかりだったり、電車やバスが少なく街へのアクセスが悪かったりすることから得るストレスもある。

しかしそういった地域社会の不便さから生じるストレスは、個人でうまく対処すべきだとされている。外部に責任を押し付けるのではなく、自分で対処すべきだと。

多くの人はストレス解消のために、ジムに通ったり、友人と会ったり、美味しいものを食べたり、ものを買ったりするのだが、そのどれもがお金を使うことに結びついている。地域社会の不便さから負わされるストレスを、自腹で解消するのがよしとされているのだ。

この個人主義は政治や社会の問題を個人に還元し、個人で解決するように仕向ける。政治参加、社会参加によってではなく、個人消費によってストレスの原因を減らそうとしている。毎月、毎日、消費税や住民税などの形で決して安くない税金を払っているのに。

オルデンバーグは自己啓発ブームによる個人主義を批判する。もちろんそれはアメリカ社会に対しする言及であるが、日本にも大方当てはまる。現在の日本は、オルデンバーグが述べるように、自己啓発と個人主義がもてはやされ、ストレスも幸福も個人の努力でどうにかなると考えるが普通だ。

しかしオルデンバーグの、以下のような主張を読めば、その風潮の過ちに気づく。

人間は本質的に社会的生物であり、その状況が集団生活の質に大きく左右されるのだから、個人の幸福には明確な限界がある。今のような規模と方向で個人の幸福が奨励されているのは、集団の幸福がないことの現われだろうが、その埋め合わせにはならないだろう。

まったく正しい。わたしたちの生活は、多くの人との連関で成り立っているわけだから、個人の努力には限界がある。個人としていい社会を目指すなら、社会としてもいい社会を目指さす必要があるのだろう。