閉鎖的な村と食人を生々しく描く漫画『ガンニバル(二宮正明)』の感想

ド田舎の超閉鎖的な村で、人知れず、人が人が食うという、ホラー要素満載のワクワクする漫画。それが『ガンニバル』である。

『約束のネバーランド』『鬼滅の刃』『東京喰種』『進撃の巨人』など、近年ヒットしたこれらの作品にはある共通点がある。それは人間が捕食されることだ。人間が食われる。

しかし『約束のネバーランド』や『進撃の巨人』などの作品において捕食者は、鬼や巨人、吸血鬼といった虚構の存在だ。だからなのか人間が食われる存在であることを、いつのまにか忘れてしまう。いつのまにか単に命を狙われるだけのファンタジー漫画としてみてしまうことがある。

それらのヒット作と比べるのは野暮かもしれないが、『ガンニバル』は食人の生々しさをとてもよく描いている。

『ガンニバル』で描かれるのは、人間を食う人間だ。われわれと同じ人間が、人間の肉を食いちぎり、胃の中に入れて消化するというのだ。

いったいなぜ人間は食われるのか?
いったいなぜ人間は人間を食おうとしたのか?

『ガンニバル』はそれを生々しく描いてくれる。

『ガンニバル(二宮正明)』のあらすじ

ざっくり内容を説明する。

警察官の阿川大悟は、山間にある村「供花村」に駐在することになる(※駐在:家と交番が一体になった駐在所に、住み込みで勤務する)。

供花村は山間にある閉鎖的な村なのだが、前任の駐在官はこの村で謎の失踪をとげている。しかも行方不明になる直前、村人が人を食っているという奇妙な発言をしていた。

赴任して数日、ある老婆の死体が森でみつかる。しかもその死体の腕には人間の歯型がついていた。警察官として駐在した阿川大悟は、「この村は人を食っている」という噂が本当なのかをたしかめようとするのだが、村人から「余計なことはするな」と警告を受ける。

警告をよそに調査をつづける阿川は、徐々に村の秘密を知ることになるのだが、それに感づいた村人は、阿川に対して警告だけでなく、陰湿な嫌がらせや、妨害をしてくる。

この作品で描かれるのは超閉鎖的な村社会だ。村の掟は絶対で、その掟を破れば村八分にあう。一方で、村の掟は法律や人道に反している。違法であり、反倫理的である村の掟を目前にしたとき、われわれどうすればいいのか。本作品では、主人公を部外者の警察官に設定することで、わかりやすく描いている。

『ガンニバル』の感想(※ネタバレあり)

「人はなぜ人を食ったのか?」がリアルに描かれる 

まず感じたのは、食人に関してリアルに描かれているということ。

ネタバレになるが、ガンニバルの舞台となる架空の村である「供花村」では実際に食人がなされている。そして「なぜ供花村で食人がおこなわれているのか?」という理由の部分が、歴史上、人類が実際におこなってきた食人と合致している。

割と普通に、人間は人間を食っている

図説 食人全書』を読むとわかるが、あらゆる地域で人間は人間を食っている。

その理由は様々で、死者を弔うためだったり、神への捧げものとしてだったり、人間を食べるとその人間の力を得られる信じられていて、英雄や敵を食べることもあった。敵に恐怖を与えるために殺した敵を食うこともあった。またこれら儀式や弔いなどは単なる言い訳にすぎず、実際は単純に飢えを凌ぐために人間を食っていたと言われることもある。

いずれにしても、人間はいつの時代も、あらゆる地域で、人間を食っている。日本も例外ではなく、江戸時代の「天明の大飢饉」では、食人をしていた。また難破した徴用船の乗組員が行った食人事件「ひかりごけ事件」は1944年のことである。

「食人なんて考えられない」「ファンタジーの出来事だ」と思っているかもしれないが、食人はありとあらゆる地域で、割と普通に行われている。

『ガンニバル』でおこなわれる食人は(7巻時点では)、死者の弔いや儀式が理由だ。供花村が食料難の時代に、食糧の確保や口減らしの意味もあった。

たとえば、最初に描かれる食人は、後藤家の当主であった後藤銀。彼女は1巻で熊に食われた。その後、後藤家と阿川で食べた熊を仕留め、熊の内蔵から後藤銀のいち部を取り出して食べる。ここで描かれるのは死者の弔いとしての食人だ。

その後に描かれる食人は儀式としてだ。年に一度の祭りのときに子供を神に捧げる。捧げた子供を食べる。

この村では、7巻現在では、決して娯楽として食人が行われているわけではない。村が村として平穏に存続していくために、儀式として食人が行われる。こういった儀式や弔いとしての食人も、現実世界で実際に存在した出来事である。たんなる物語というわけではないのだ。

生々しいからこそ納得感もある

大ヒットしている『約束のネバーランド』や『鬼滅の刃』も人間が餌になることがテーマだが、相手は虚構の存在なので、物語として、ファンタジーとして、登場人物に共感しながら、作品を楽しむことができる。

こういった作品と比べると、人間が人間を食う『ガンニバル』は、非常にグロテスクで生々しい。しかしだからこそ、リアリティがある。過去の人間は村を存続させるために何をしたのか、どんなルールをつくったのか。どんな理屈で、人を食うことを正当化してきたのか。

閉鎖的な村では人間は、人間を食うことすら正当化してしまう。そこにはどんな事情があるのか。これらについて、一見納得感のある理由を提示してくれる。

閉鎖的な村社会と、部外者の対立

『カンニバル』のもう1つのテーマになっているのは、閉鎖的な村社会だ。

舞台となる架空の村「供花村」では、夫婦喧嘩はその日のうちに村人全員に知れわたる。陰口をいえば、村全体に知れわたる。

典型的な男社会であり、宴会では、女性は男性に酒を注がなければいけない。セクハラだって当たり前。

男尊女卑、排他的で閉鎖的、没個性的。

供花村では村の掟が絶対で、文句をいえば問い詰められるし、掟を破れば村八分になる。村の掟は法律や道徳よりも優先される。

そんな閉鎖的な村社会にメスを入れるのが、本作の主人公である警察官の阿川だ。法の執行人であり、正義の番人である警察官だ。

この構図が非常に面白い。

それまで村の掟を村人の全員が守り、波風が立てずにうまくやってきた。村の掟が法律的にも倫理的にもアウトでも、村の掟を守ることで、平凡な日常を過ごしてきた。しかしある日突然、部外者であり、警察官の阿川が入り込むのだ。

海外のホラー映画では、殺人鬼を擁する村や一族と警察(たいてい保安官)がグルだったりする。『ガンニバル』もそのパターンかと思っていたが、7巻では、警察本部が動きだすに至っている。この展開は、とても先に気になるものだ。

正義はどちらにあるのか

ガンニバルでは、日本の法律と村のしきたり、グローバルルールとローカルルールがわかりやすく対立する。

ここで考えさせられるのは、ローカルルールでうまくやっていた場所に、正義と称したグローバルルールを勝手に押し付けることの如何である。

供花村には猟銃を当たり前のように携帯しているし、食人だって、近親相姦だって、優生思想だってはびこっている。人権もプライバシーもない。現代的な価値観に照らし合わせれば、完全にアウトだ。

しかしそれでも村はうまくやってきた。表面上ではあるが。

そこにある日突然、部外者がやってきてグローバルなルールを、世間的な正義を一方的に押し付けるのだ。

これは自らの勝手な理屈で多くの先住民を蹂躙し、啓蒙の名のもとに、文化や習慣を改めさせたり、奴隷化してきた、近代の帝国がやっていたことと同じともいえる。また、現在のアメリカや欧米がリベラルの名の下に、一部のイスラム教国家を批判するのと同じとも考えることができる。

『ガンニバル』における供花村でおこなわれることは、倫理的にも法律的もアウトだ。一方で「食人、近親相姦なんて絶対にあり得ない」という正義を掲げて、その金棒でローカルな人たちを一方的に殴ることについても、考えなければいけない。

ちなみに『ガンニバル』における主人公の警察官の阿川は、後藤家に立ち向かうとき、なぜかニヤついてしまう。これは多分、正義の名の下に人を蹂躙できることに快感を感じているのだろう。不倫などの不正義を声高に批判して快感を感じているネット民のように。

さて今後どうなるのか。あの村に流れる、ローカルルールを、正義の名の下に正すことができるのか。それとも国家権力をもってしても、対抗できないのか。とても先が気になる、面白い漫画である。