健康という宗教とどう付き合うべきなのか?|『「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信』の内容紹介と感想

 身体は食べたものからできている。だから食べることは健康と密接につながっている。近代の日本人がビタミンB1の不足で脚気に苦しみ、ヨーロッパの人々がビタミンC不足で壊血病で苦しんだように、食事の偏りは病気の原因となる。食べものは健康にとって非常に重要であることは間違いない。しかし最近は、健康であることが絶対的な善であるという価値観がはびこり、その影響で食は不自由なものになりつつある。

 医者や栄養士は、健康に良い食べものと悪い食べものの線引きを行った。その結果、食べたいものを食べたいだけ食べるという食の自由は、実質的には存在するが形骸化した。罪悪感のない食べものに対して主に使われる「ギルトフリー」という言葉がそれを象徴している。ギルトフリーが存在するということは、その逆、ギルトな食べ物、つまり、罪悪感を持ってしまい気持ちよく食べられない食べ物が存在するということなのだから。そうなってしまったのも「健康第一」という思想が支配的になっているからだ。

 健康はたしかに大切である。しかし健康よりも大切なことはたくさんある。私たちは健康のために生きているのではない。人生を楽しむために健康があるのだ。そう主張するのが『健康から生活をまもる』である。本書は「健康は宗教である。その宗教を信じるしないかは、個人の自由である。その自由を奪っていい権利は誰にもない」と述べる。

 著者は、医師でありライターでもある大脇幸志郎である。健康第一を押し付けるのは主に医師であるが、同じ医師である著者が、健康第一主義を批判するという非常に刺激的な一冊である。

「健康第一」は宗教である

 先に少し紹介してしまったが、本書の主張はシンプルだ。すなわち「健康も大切であるが、健康よりも大切なことはたくさんある。健康は宗教であり、それを信じるかどうかは個人の自由だ。他人に押し付けるべきではない」というものだ。

健康より大事なことを、本当は誰もが持っている。なんでもいい。おいしい食べものに酒、趣味、仕事、恋愛、あるいは家族。人は何か大事なもののために体を壊す。それは当たり前のことだ。

 内容は主に、健康であることを押し付けてくる権力に対する批判である。たとえば医者や国家、あるいはWHOが流布する健康ガイドラインや、健康的な生活習慣、健康的な食事などを挙げ、それらがいかにこじつけ的であり、宗教的であるかを解き明かす。

 著者は西洋医学や医学の進歩を否定してはいない。天然痘の根絶やビタミンCの発見、抗生物質など、人を病から解放した医学の進歩を否定はしない。著者が批判するのは、近年はじまった、生活習慣病を予防するという名目で課される健康的な生活である。たとえば運動をしろ、禁煙をしろ、禁酒をしろ、塩分を抑えろ、コレステロールを抑えろなど、医師や国家は健康維持のために私生活にまで介入してくる。著者が批判するのは、医師や国家のそういった態度だ。

 本書は健康第一主義を宗教であるとしているが、だからといって「間違っている」と批判したり排除したりするのではなく、その宗教を尊重しつつ、その害を取り除くことが大切だと述べる。健康第一で生きるならそれは否定しないが、健康第一を他人に強制したり、他の宗教や考えを否定したりする態度には抵抗していくということだ。

誰も他人の宗教を指して「間違っている」と言うことなどできない。だから、「健康第一」という迷信を捨てるためには、「それは迷信だ」と正しく指摘するだけでは不十分だ。そうではなく、「唯一の宗教ではない」と言うべきだ。

「健康第一」という宗教によって急増した食のタブー

 健康第一が宗教であるというのは、非常に的確な表現である。本書でも述べられているように、健康はまさに神である。

 健康とはなんだろうか。病気が一切なく、痛みや違和感、不調がまったくない状態を指すのだろうか。しかし、そんな状態がありえるだろうか。精密検査を受ければ何かしら不具合は見つかるだろうし、自身に問うてみれば、最近疲れやすい、息切れしやすい、腰が痛い、肩が痛い、頭痛になりがちなど、必ずどこかに違和感があるものだ。病気もない、身体の違和感もまったくないという、「真の健康」という状態が存在するとは考えられない。「健康」とは、到達することができない存在であり、神なのだ。そしてそれを信じることは宗教にほかならない。

 食について考えると「健康第一」はよりいっそう宗教感が強くなる。イスラム教やユダヤ教などのメジャーな宗教がそうであるように、多くの宗教には食のタブーが存在する。そして健康という宗教にも食のタブーが存在する。「健康」という宗教は、カロリーや塩分、脂質、糖質が高い食べ物をタブーとする。タブーをおかすと「病気」という悪魔に襲われる、ということになっている。他の宗教と同じように、タブーをおかしても直ちに何かあるというわけではない。

 最近は「ギルトフリー」という言葉で、食べていいものにお墨付きが与えられるようになった。「ギルトフリー」とは主に食べものにつけられる言葉で、ヘルシーで、食べても罪悪感がないことから、そう呼ばれるようになった。この言葉はまさに、健康が宗教であることを表している。ギルトフリーはある種のお墨つきであり、これはイスラム教のハラルや、ユダヤ教のコーシャと同じである。その意味でも、本書の主張である「健康は宗教である」は、的を射たものである。

ファッションも宗教も自分のものにする

 最終章の「誰がファッションフードを笑えるか」では、ファッションフードについて言及しており、食べものや食文化を調べる筆者にはとても響く内容である。

 この章で著者は「医学はファッションである」と述べる。前述のとおり著者は天然痘の根絶やビタミンC、抗生物質など、人間を病気から解放した医学の進歩を否定はしない。しかし、そういった業績はまれにしかなく、他は「言葉を飾って手柄を大きく見せているもののほうがはるかに多く、そちらはファッションと言わなければ説明がつかない」と主張する。

 医学はファッションである。「しかし人間はファッションから逃れることができない」とした上で、ファッションをファッションとして楽しむ道を提案する。ここでは畑中三応子の『ファッションフードあります』から「ファッションフードは、感動とときめきをもたらしてくれるものである」という言葉を参照し、「健康という罠に立ち向かう力は、ファッションから生まれてくる」と述べる。否定するだけでは、誰も幸せにしない。否定するのではなく、ファッションを楽しんだり、時に疑ったりして、自由に楽しむことが重要である。と同時に、その自由を奪おうとしてくる権力に毅然と抗議することが必要だ。そんな主張で本書を締めくくられる。

健康という罠に立ち向かう力は、ファッションから生まれる。私たちが自分の好みと身近な人たちのファッションに従って、時に疑って、食べたいものを食べること。人と人との関わりに上から割り込んでくる権力には毅然と抗議すること。自由に生きること。それこそが、より深い意味で20世紀を反省するということであり、医学が本来の役割を思い出して人を幸せにするために必要なことでもあるのだ。

 結局のところ人間は、宗教からもファッションからも逃れることができない。ならばそれらを否定するのではなく、受け入れる。「自分のものにして笑顔になれる人こそ真の勝者」なのである。

健康第一主義のせいで私たちは不自由になっているのではないか?

 完全栄養食(完全食ともいう)というディストピア飯のようなものが生まれ、それが必要とされる。違法なもの食べているわけではないのに「ギルトフリーな食べもの」というものが生まれる。

 人類史上かつてないほど自由な時代になったはず。にもかかわらず現代はかつてないほど多くの食のタブーが存在している。糖質、脂質、塩分を筆頭に、最近ではグルテンも悪者にされる。肉や魚を食べることも非道徳的であるとされる。健康という宗教を盲信すると、身の回りのある食べもののほぼすべてがタブーになる。結果、ディストピア飯さながらの完全栄養食しか食べられなくなる。ある意味、完全栄養食は、神から授けられた「救い」といえるかもしれない。健康維持に必要だといわれている栄養素をすべて含んだ、何の罪悪感もなく食べられるものなのだから。

 「健康第一」は私たちを幸せにするのだろうか。せっかく獲得した自由を、健康の名の下に制限し、精神病を増やして、本当に幸せなのだろうか。本書が提唱するように、健康よりも大切なものはたくさんある。そして誰にも、本人の自由を奪う権利はない。たとえそれが健康のためであっても。それを主張した本書は、今まさに読まれるべき一冊であることは間違いない。