コロナが徐々に落ち着いてきた2022年の8月、私はフードデリバリーの仕事を始めた。Uber Eatsや出前館などの配達員の仕事である。理由は単純に生活費を稼ぐためである。フィールドワーク的なものというわけではない。
Uber Eatsや出前館で実際に配達員の仕事をしていて気づいたのは、一昔前と現在の出前のあり方が全然違うことである。
本記事では、Uber Eatsの上陸とコロナ禍に端を発するフードデリバリーの普及は何を変えたのか。この点について主に食の観点から書いていければと思う。ただしこの記事で述べる内容は私が主に稼働している東京都内に限った話である。まだまだフードデリバリーが普及していない地方やあってもそれほど盛んではない地方についてのことではない。また配達員の稼ぎ方といった内容でもない。
フードデリバリーの普及は食の何を変えたのか?
まずUber Eatsの上陸とコロナ禍によるフードデリバリーサービスの拡大は、以下の3つの大きな変化を与えたのではないだろうか。
- 出前は非日常のものから日常のものになった
- ジャンル、形状、温度問わずどんな料理も届くようになった
- 飲食店の立地、広さ問題からの解放し、あらゆるキッチンを有効活用できるようになった
出前は非日常のものから日常のものになった
食べ物を出前してもらう心理的ハードルが、ここまで下がった時代は過去にはないのではないだろうか。一昔前は出前は特別な日にしてもらうことが多かったように思う。親戚や家族、友人が集まった時、どうしても食事を作るのが面倒な時などに限ったことだった。一方でフードデリバリーサービスが普及した現在、出前は特別な日だけでなく、日常的なものになった。また家族が集まった時だけではなく、1人用の食事を注文するようになった。そのことに配達員の仕事をしていて気づいた。
配達員をしていると1日30件程度の注文を受けることになるが、運ぶ食事の量はそのほとんどが1人分の食事である。牛丼1個やマックのセット1つ、あるいはおかずとご飯のもの2品などが多い。また一軒家やファミリータイプのマンションよりも、単身用の小さなアパートに配達することが多い。これはつまり1人分の食事を多くの人がフードデリバリーサービスで注文しているのである。もちろんこれは私が主に配達している東京23区での話である。
それにしても一昔前の出前は、大人数を想定していたのではないだろうか。寿司は基本的に大きな桶に入ったものが多かったし、ピザ屋のメニューについても、今では1人用のピザを置く店が多いが、2人以上の大人数で分けることを想定したサイズが最低サイズであった。もちろん町中華の出前ではラーメン1つから出前できたのかもしれない。しかしそのような1人前の出前を、都心部の多くの人が日常的に行うようになったのは、やはりここ最近のことなのではないか。
それができたのもデリバリーサービスの発展のおかげだろう。アプリを開いて数回タップするだけで何でも注文できる。スナック菓子1個から配達してもらえる(私は一度ポッキー1箱を運んだことがある)。出前は時々使う非日常のものではなく、いつでも使える日常のものになった。それは配達員の仕事だけで生計を立てている人が無数に存在することからもわかる。専業で配達員になれるくらいには、注文があるのである。もちろんこれは都心部に限った話ではあるが。
ジャンル、形状、温度問わず、どんな料理も届くようになった
配達員をしていると実に様々な料理を運ぶことになる。和洋中、ピザ、そば、ラーメン、つけ麺、油そば、サラダ、チゲ鍋、豚汁、食パン、クレープ、アイスクリーム、シュークリームからホールのショートケーキまで様々である。配達員の仕事を始めた当初は「こんなものまで注文できるの?」、そして「こんなものを注文する人がいるの?」と何度も驚かされた。
これまで出前といえば、ピザや寿司、そば、町中華のラーメン屋やチャーハンなどが定番であった。もちろんファミリーレストランやファストフード店のデリバリーを使えば様々なジャンルの料理が出前可能であったが、そのほとんどはチェーン店であったし、料理の種類もそれほど多いとはいえなかった。今に比べれば。
フードデリバリーサービスの普及によって、出前してもらえる料理の種類が劇的に増えた。前述のとおり町中華もガチ中華も注文できる。ラーメンならば味噌、醤油、二郎系、家系、博多系、つけ麺、台湾まぜそばなど何でも注文できる。デザートには焼き菓子、チルドスイーツ、アイスやデコレーションケーキ、和菓子、タピオカミルクティーなどあらゆるものが選べる。和洋中、ご飯も麺もスープもパンも、冷たいものも温かいもの何でも注文できる。これほどまでにあらゆるジャンル、形状、温度の料理が注文できる時代が過去にあっただろうか。
ちなみに最近、フードデリバリー各社は料理だけでなく食材や加工食品、日用品からドラッグストアで購入できる程度の医薬品も購入できるようになっている。家電を運んだ配達員もいるようである。私は一度、男性用のジョークグッズを運んだことがある。今やフードデリバリーサービスは"フード"を"デリバリー"するだけでなく、生活のあらゆるものをデリバリーできるようになっている。今後もできる範囲でさらに配送できるものを広げていくだろう。
飲食店の立地、広さ問題からの解放、キッチンの有効活用
定休日のカレー屋、カラオケ店、営業時間前のバー、住宅街のマンション一室、厨房設備が揃った小さな個室がズラッと並ぶ集合キッチンなど、配達員の仕事をしていると様々な場所に食事を取りに行くことになる。その様子にはフードデリバリーサービスの普及は、飲食店や料理人が抱えるいくつかの問題の解決に役立っているのだと考えさせられる。
まず飲食店にありがちな立地の問題や店舗の広さの問題の解決の一助となった。俗にバーチャルレストランと呼ばれるデリバリー専門店にすれば、立地はほぼどこでもいい。駅から徒歩15分の住宅地にある薄暗いマンションでもいい。食べ物は無数にいる配達員が取りに来てくれる。また客席や接客の従業員を用意する必要もない。シェフとキッチン設備、そしてタブレットさえあれば利益を得られる。
フードデリバリーサービスは使わないキッチンの有効活用にも一役買っている。私は一度、料理を取りにいった時、店内に人はいるが「Close」の立て札がでていることがある。店はたしかにそこなので、とりあえず店内に入って配達員であることを告げると料理がしっかり出てくる。つまり、店はクローズしており来店客は受け付けていないが、デリバリーだけは対応しているのである。恐らく店を開けるほどスタッフは用意できないが、デリバリーの対応くらいならできるといった様子だろう。
他にも夜しか営業しないバーが昼間はバーチャルレストランになっていたり、出番が少ないないカラオケ店のキッチンを利用したバーチャルレストランも存在する。フードデリバリーサービスの普及は多くの飲食店と多くの料理人に料理で利益を得るチャンスを与え、これまで使われずにいたキッチンに活用機会を与えたのである。
フードデリバリーサービスはインフラになるか?
目が見えない人に届けた話
私は一度、盲目の人に料理を届けたことがある。盲目であることがわかったのは、備考欄に目が見えないとの記載があったことと、実際に届けた際に夜であるにもかかわらず部屋が真っ暗だったからだ。Uber Eatsや出前館などはアプリ1つで食事を注文できる。スマートフォンにはユーザーアシスト機能が備わっており盲目の人でも利用できるようになっている。これらのテクノロジーとサービスのおかげで全盲の人はレストランの味を自宅でゆっくり味わうことができるようになった。フードデリバリーサービスは全盲の人のみならず、飲食店に行くことが難しい身体が不自由なあらゆる人に、手軽に店の味を楽しむ機会を提供しているのではないか。
フードデリバリーサービスは料理の注文者にとってだけでなく、配達員や飲食店の人にとっても重要なサービスになりつつある。配達員の中には配達による報酬だけで生計を立てている人がいる。コロナ禍では減った収入を補うために配達の仕事をする人が増えた。飲食店も自粛生活によって減った収入をデリバリーで補った店がたくさんあっただろう。
フードデリバリーサービスのポテンシャルはまだまだ大きい。配達員をしていて感じるのは、注文者の多くが20代から40代くらいの健常者にみえる人(実際年齢はわからないが、見た目の印象ではそのくらい)の人たちである。フードデリバリーは、身体が不自由で買い物や飲食店に行けない高齢者や身体に障害がある方にこそ便利なサービスなはずである。配達員をしていてそういった方々を見かけたことはほとんどない。今後、高齢者や浸透するかあるいはUber Eatsを使い慣れた世代が高齢になった時、フードデリバリーはさらなる成長を遂げ、コンビニとならぶような生活インフラになるのではないだろうか。
おわりに|フードデリバリー普及の問題点
フードデリバリーサービスの普及は、料理を注文する人、料理人と飲食店、配達をしてお金を稼ぎたい人にとっても便利な存在となった。一方であらたな問題も生み出している。
不安定さは自由の代償か
代表的なのは労働の問題だろう。フードデリバリーサービスの普及はギグワークを多くの人に浸透させたが、一方で労働の概念を変えつつある。シフトもノルマも一切ない。好きな時、好きなだけ働ける。その辺でアルバイトするよりも全然稼げる場合がある。このような利点がある反面、社会保険が完備されていない、予告なく報酬を下げられる場合がある、報酬の基準や仕事の割り振りの基準が不透明、最低賃金を下回る可能性があるなど様々な懸念点もある。
長い歴史のなかで作られてきた労働者を保護する制度が、このギグワークには通用しにくい。しかしフードデリバリーの配達員は、その自由度や裁量性、ゲーム性でそれらの問題点に鈍感にさせられる。あるいは自由の代償として仕方がないと納得させられてしまう。ただし、その自由はプラットフォーマーから与えられているまやかしの自由だったりもするのだが。
ちなみにUberの役員や125人のドライバーへのインタビューから、IT企業のアルゴリズムと労働に焦点をあてた『Uberland』はアルゴリズムによって仕事の量や報酬が決まる社会を考察している。Uberという会社とそのアルゴリズムが労働にもたらした影響を知るうえでとても参考になる。
社会への共感の喪失と食のブラックボックス化
他にもフードデリバリーサービスの普及に様々な批判をしてみることができる。たとえば飲食店に出向く機会が減ることで、他者への共感力が乏しくなってしまうのではといったものや、食がブラックボックス化することの悪影響である。
飲食店に足を運んだりスーパーで食材を購入したりする行為は手間がかかる。しかし外に出て店のスタッフや店の客、道中の人などあらゆる人と、話さないまでも遭遇することで、社会の多様さや複雑さを感じることができる。フードデリバリーの普及はそういった機会を激減させてしまうのではないだろうか。フードデリバリーサービスを使うことで空いた時間で、社会に接する機会が増えるならいいのだが。
食のブラックボックス化についても不安がある。フードデリバリーサービスは置き配も可能であり、置き配に設定すればアプリで注文すると数十分後には部屋の前に食事が届く。配達員とも顔を合わせることなく食事を入手できる。便利である反面、ディストピア感もある。ボタン1つで部屋の前に食事が届くのである。誰がどこで作り、どのように運ばれてきたのか分からない食事がである。その食事は本当に安全なのだろうか。その安全性を誰が保証してくれるのだろうか。
フードデリバリーに関しては他にも書きたいことがたくさんあるが、きりがないのでひとまず本記事はこれで終わることにする。また別記事で配達員をしていて気づいたことや、フードデリバリーの考察などをお伝えできればと思う。