【書評】『はじめての動物倫理学』|なぜ動物に倫理が適用されるのか、動物とどののように付き合うべきかがわかりやすく解説された一冊

 ペットとなる犬や猫に愛着を感じ、大量の犬や猫が日々殺処分される現実に強い反感を抱く一方で、日々、動物の肉を食べ、乳製品を消費し、動物園を楽しみ動物実験を黙認している。

 生きるためには食べなければいけない。具合が悪い時は薬に頼らなければいけない。その薬がたとえ残酷な動物実験の成果であっても。

 ある動物の保護を求める一方で、ある動物は駆除される。実験動物として、食糧として殺される。この一貫性のない私たちの姿勢に対して、私たち自身はどう向き合えばいいのか。動物に対してどう向き合うのが倫理的であるといえるのか。

 その考え方のヒントをくれるのが、『はじめての動物倫理学』(田上孝一、集英社新書)である。

 本書は動物倫理学について、そのモデルとなる倫理学の基本的な考え方や、動物倫理学という学問がいかにして確立したか、そして動物倫理学にもとづいた動物との付き合い方を解説した一冊である。動物倫理学の考え方はもちろんのこと、倫理学の基本的な考え方がわかりやすく解説されており、倫理学の入門書としても重宝する。そして何より、動物に倫理を認めるという一見違和感のある考え方がどのように確立され、どのような論理によって支持されているのかを学べる刺激的な一冊でもある。動物倫理学の基礎を学ぶのにこれほど適したものはないだろう。

 ちなみに動物倫理といっても、ペットや家畜に快適な暮らしをさせるべきというような話ではない。それはいわゆる動物福祉の領域である。動物倫理学が問うのは、動物にも、人間と同程度の権利が認められるべきではないかと問うものだ。

 私たち人間は、他人に生殺与奪の権利を握られることはない。自分の人生を自分の意思で決定できることになっている。同じように動物も、生殺与奪の権利を他者に一方的に握られることがあってはならないのではないか。人間が当然のものとして有する権利を、動物も有すると認めるべきなのではないか。これを問うのが動物倫理である。

倫理学における3つの基本的な考え方

 本書ではまず、倫理学の基本的な考え方が解説される。倫理学の基本的な考え方とは、功利主義と義務論、徳倫理の3つである。

 功利主義は、ある行為が倫理的かどうかは、その行為によって幸福が増えるか、苦痛が増えるか、その結果によって決まるとする考え方である。結果的に幸福が増えるなら、その行為は倫理的となる。

 義務論は、ある行為が倫理的であるかどうかは、その行為があらかじめ立てられた道徳法則に適っているかどうかによるとする考え方である。義務論は、功利主義のように結果ではなく、行為の意図や動機によって倫理的か否かが決定される。

 3つ目の徳倫理は、倫理的な行為か否かは、その行為者が徳のある人かどうかによって決まるという考え方である。つまり、何をするかよりも、誰がするかによって倫理的かどうかが決まるのである。

 功利主義、義務論、徳倫理の3つはどれも反論の余地が多分にあるが、現在の倫理学の基礎的な考え方になっている。そして動物倫理学もこの3つの考え方に依拠して説明される。言い換えれば、動物をどのように扱うのが倫理的かを考える際にベースとなる考え方は、功利主義、義務論、徳倫理を参考にしているのである。

動物倫理学の確立の背景にあるもの

 本書の前半では、動物倫理学が確立した背景を紹介している。動物にも倫理を認めるというのは、一見、違和感があるが、いったいいどのようにして動物に倫理を適用するようになったのか。

 動物にも倫理を認めるべきという流れは、多様性を尊重すべきという昨今の流れからでてきた。多様性の尊重とは、人種や性別、年齢や障害の有無に関係なく、個々の人間を等しく尊重しようというものであるが、この流れのなかでそれまであった人間と動物の境界を打ち破ろうとする理論家が現れたのである。

 それについて著者は次のように述べる。

 多様性を尊重するということは、社会の中心を形成する人間集団を人間一般の雛形として、そこから外れる周縁的な人々を議論の埒外に放置することなく、全ての個人を包括するような人間の哲学を構築してゆこうとすることである。
 <略>
 障害者を含む多様な個々人を全て包含するような理論を構築しようとすることは、典型的人格のみを想定していた狭い人間観を前提とした伝統的な思考それ自体を相対化することになり、理論家の中には人間と動物の絶対的区別という知的伝統をも打ち破らんとする者が現れたのである。
 こうした流れの中から、人間固有のものだと当然視されてきて、今も一般常識では当然視されている権利を動物にも認めるべきだという議論が、非常に強力な理論的根拠をもって主張され始めたのが、現代の動物倫理学の世界ということになる。

 動物倫理学の確立の背景には、多様性の尊重の他にも要因がある。たとえば現代になって動物の感覚器官の解明や知能の有無が解明が進んでいることや、車や代替肉などの登場で、動物の存在が生活に必須ではなくなってきていることだ。科学の進歩によって、人間と動物の境界がますます薄れていること、そして科学技術の進歩によって動物に頼らなくても生活できる人が増えたこと。これらも動物倫理学の確立の背景にある。

動物に倫理を当てはめることができるのか?

 動物倫理学は多様性の尊重を背景にして生まれている。しかしなぜ、動物が多様性の尊重の範囲に入るのだろうか。同じ人間であるならばどんな人間であれ尊重すべきであるという話ならわかる。なぜその多様性の範囲が動物にまで広げられるのだろうか。

 多様性の範囲を動物にも広げた第一人者として知られるのがピーター・シンガーである。彼はその主著、『動物の解放』のなかで、動物も人間と同様に痛みや恐怖を感じることができ、ならば人間と等しく、その権利を尊重するべきではないかと、功利主義にもとづいて動物の解放を主張した。動物も私たちと同じく、痛みや恐怖を感じる。ならば動物も人間と同じように扱うべきではないかと。

 ただし、苦痛や恐怖を感じる能力を根拠にしたシンガーの主張は、苦痛や恐怖を感じない動物ならどう扱ってもいいのか、という反論に対して応答できなかった。

 その主張の隙を埋める主張をしたのが、動物の権利を哲学的に基礎づけたトム・レーガンである。レーガンは、痛みや恐怖を感じる能力に関係なく、ただ自らの生を自認できる存在であれば、権利を認められるべきであると主張した。これはカントの義務論に立脚した主張である。簡単に言えば、動物も人間と同じく自らの生を主体的に生きる存在であり、ならば人間と同じように、その権利を侵害されてはならないのではないかと、主張したのである。

動物倫理学からすればペットも動物園も肉食も止めるべきである

 本書では動物倫理学の確立の過程とその理論的根拠の解説の後、動物倫理学の観点から動物との付き合い方についてが具体的に述べられている。

 すなわち、動物倫理学の観点からいえば、肉を食べることはもちろんのこと、現在の畜産も、ペットとして動物を飼うことも、動物園も、動物実験も、そのすべてが倫理に反するなる。なぜならこれらの行為はすべて、人間が動物の生殺与奪の権利を握るものだからである。どの行為も、相手が人間ならば決して許されない行為である。動物にも権利を認める動物倫理学の観点からは、これらの行為はすべて倫理に反する行為となる。

 また畑を荒らす動物を駆除する行為も反倫理であるとされる。というのも、そもそも動物が畑を荒らさなければならない状況を作った人間に非があるからである。動物が人間の畑を荒らさなくても生きていける環境を作ることが、倫理的行為となる。

 また本書の後半では、キリスト教における人間中心主義の考察と、環境に対して行為すべきかという学問である環境倫理学の考察、そして最後の章は、マルクスの思想から動物倫理を考察する。

ビーガンを進める本ではない

 本書はビーガンになれという説教臭い本ではない。単に動物倫理学の考え方とその確立の過程と理論的根拠を述べるものである。もちろん肉食やペットの存在、動物園の存在は非倫理的であるというのが本書の結論でるが、それは「動物倫理学の考え方に当てはめれば」といった述べ方にすぎない。考え方のモデルを述べているだけであり、その考え方に同意するかどうかは個人の問題である。そのように本書も述べている。

 繰り返しになるが、決して説教臭い本ではない。倫理学、及び動物倫理学をコンパクトに学べる一冊となっている。

動物倫理学の今後

 今後、動物倫理学はどうなっていくのか。『肉食の哲学』(ドミニク・レステル)では、倫理的ベジタリアン(ビーガン)は、動物の悲鳴は聞こえるのに植物の悲鳴はまったく聞こえない人たちだと、倫理的ベジタリアンを痛烈に批判している。

 動物倫理学は、今後、その対象範囲を動物以外、虫や魚、そして植物に広げるようになるのだろうか。あるいはどこかで、倫理の適応範囲を限定することになるのだろうか。

動物倫理学と海外ドラマ『ヒューマンズ』

 余談ではあるが、本書を読むのと時を同じくして、『ヒューマンズ』という海外ドラマを見たのだが、動物倫理学とリンクする点が多分にあった。

『ヒューマンズ』は2015年から配信されているイギリスの海外ドラマである。本作は人間そっくりのアンドロイドである「シンス」が普及した社会を描く近未来SFである。

 シンスは、簡単な会話や掃除、洗濯、洗い物、料理、車の運転、買い物の代行、絵本の読み聞かせなどをこなせる人間そっくりのアンドロイドである。もちろん人間に危害を加えることはなく、所有者の言うことを聞くようにプログラムされている。

 本作では、このシンスが社会のあらゆる場面の普及している。多くの家では家事ロボットとしてシンスを一家に一台所有をしている他、コールセンターや広場掃除、夜のお店などのもシンスが担う。

 さて、このシンスだか、近未来のSFのお決まりのパターンのとおり、意思を持った個体が現れる。人間と同じように意思や感情があり、また痛みも感じるのである。本作の後半ではこのような意思をもった個体増え、シンス同士が団結し、シンスにも人間と同じように、裁判を受ける権利や危害を加えられない権利を、人間に対して求めるようになる。

 ロボットが人間と同じように痛みを感じ、感情を持ち、主体性をもった時、ロボットにも人間と同じ権利を認めるべきか。このような思考実験が繰り返されるのが『ヒューマンズ』である。この思考実験の過程は、本記事で紹介した『はじめての動物倫理』とリンクする部分が多分にあり、倫理学の理解を助けてもらった。