『鬼滅の刃』に見られる【理系VS文系】的構図について

 『鬼滅の刃』を最終巻まで読んだのだが、本作は文系VS理系のような構造があるように思える。

 ちなみにこの文章はネタバレを含む。また『鬼滅の刃』のストーリーや登場人物の属性などをある程度把握している前提で展開していくので留意いただきたい。

生物的な強さを価値を置く鬼たち

 まず、鬼舞辻無惨率いる鬼たちは生物的な強さを至高のものとしており、その姿勢は理系的である。

 鬼たちは老いないことや、肉体が強くあることを重要視している。まず上弦の鬼になるためには、鬼舞辻の血に順応できる強い肉体を持っていなければいけない。そもそも強い肉体を持って生まれる必要があるという、優生を重視する思想が見える。鬼舞辻の血に順応した後は、さらに強くなるために人間をたくさん喰わなければいけない。そのためには人間を圧倒する身体的能力が必要である。つまり、鬼の世界においては、肉体的に強いことに価値が置かれている。鬼たちは不老であることを誇る。寿命が存在し、力では鬼に遠く力が及ばない人間を、劣等的存在とみなすのである。優生思想的なのだ。

 不老であり、傷もすぐに治り、身体的能力も高いこと、つまり生物的に強い存在であることが、鬼にとって至高の価値なのである。これは筋トレにいそしみ、不老不死を目指し、文系的なものを不要なものとして切り捨てる、現代の脳筋理系至上主義者に通じるものがある。

人文的なものに価値を置く鬼殺隊と人間たち

 そんな鬼に対して、鬼殺隊を含む人間たちは、1人で立ち向かうのではなく、”思い”という物語によって連帯し対抗する。別の言い方をすれば、生物的な力で向かってくる鬼に対して、”思いによる連帯”という文系的な力で対抗するのだ。
 鬼殺隊の柱は肉体的には強い。生得的な才能や肉体的強さが必要である。この点は鬼に近いものがある。一方で、どれほど強い人間でも、1人では鬼舞辻無惨は決して倒せない。鬼舞辻無惨はおろか、その手下である上弦の鬼にも1人ではかなわない。1人で立ち向かって死んでしまった炎柱の煉獄さんの例からもそれはわかる。つまりいくら強い人間でも、1人では鬼に勝てないのだ。
 だから鬼殺隊を含む人間は、連帯して戦う。上弦の鬼のほとんどは複数人の鬼殺隊で協力して倒した。そして親玉である鬼舞辻無惨を倒す時は、鬼殺隊のほぼすべてが一丸となって戦った。悟空が最後に1人で決着をつけてしまう『ドラゴンボール』とは対称的である。『鬼滅の刃』は1人で戦うシーンが非常に少ない。強い鬼と戦う時は、ほぼ複数人の鬼殺隊と協力している。

 また鬼殺隊が連帯するのは、鬼殺隊同士だけではない。鬼殺隊が鬼と戦うためには武器を製造してくれる刀鍛冶の存在が欠かせない。『鬼滅の刃』は刀鍛冶の存在がしっかり描かれているが、そこには刀鍛冶との連帯なくして、鬼討伐はありえないというメッセージを込めているからだろう。
 鬼殺隊が連帯するのは刀鍛冶だけではない。鬼を倒した後の事後処理舞台の存在や、傷の手当を行う人たち、そして鬼舞辻無惨を倒すための薬の調合する人たちの存在も描かれる。特に薬の調合は、鬼舞辻無惨を倒すために不可欠な存在であるように描かれており、これは鬼殺隊だけでは無惨を倒せないことを表している。

 このように鬼殺隊含む人間は(薬の調合したのは鬼であったが)連帯することで、鬼に立ち向かう。そしてこの連帯は、作中では産屋敷が強調する”思い”の存在によって実現しているとされている。この”思い”とは、文系的な言葉でいえば、物語である。共通の物語によって連帯するという、極めて文系的なもので鬼殺隊は戦っているのである。

呼吸の伝承による過去の人との連帯

 また”思い”による連帯は、同時代の人だけでなく、過去の人との連帯をも生んでいる。鬼殺隊は過去から受け継がれてきた呼吸を使って鬼に立ち向かう。呼吸は鬼を倒すために生み出されたものである。つまり鬼を倒すという”思い”によって受け継がれたものである。
 
 さらに文系的要素を強めるのは「日の呼吸」を舞として伝承していたことである。鬼舞辻無惨を追い込んだ剣技である「日の呼吸」は、鬼舞辻が剣士を殺したことで、過去に途絶えていた。ゆえに竈門炭治郎の時代は剣技としての「日の呼吸」は受け継がれていなかった。しかし「日の呼吸」は、炭を扱う家系である竈門家が、年1回に舞う神楽「ヒノカミ神楽」によって伝承されていた。
 
 このように舞や祭、行事によって、先祖の教訓を継承するのは非常に人文的である。科学が発達する前、人間は伝承や言い伝え、祭によって過去の記憶を継承してきた。「かつては人身御供の祭だった」という言い伝えが残る祭を考察した『神、人を喰う』では、「かつては人をお供えしていた」とする言い伝えが残る祭は、実際は人をお供えしていたかはわからないが、人間と自然のつながりの意識を取り戻すために、そのような言い伝えが残っているのだと述べている。
 また「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という言い伝えがあるが、これは電気がない時代、夜に爪を切るとゲガをする可能性があり、その危険を避けるために言い伝えが残ったといわれている。他にも現存する祭や行事、言い伝えなどは、生きるための教訓を過去の人が残したものだとされている。竈門炭治郎の先祖が継承したヒノカミ神楽もまさにそういったものである。

物語による連帯

 ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』のなかで、物語によって連帯できるのが、人とその他の動物の決定的な違いであると述べている。人が群れの単位を超えて、数百の村、数千人、数万人を超える国家を築くことができたのは、人が物語を語ることができ、多くの人と連帯できたからである。
 物語とは、たとえば宗教がそうである。他にも「人はみな生まれながらにして人間らしい生き方をする権利を持っている」というのは”人権”という物語である。「個人の自由を尊重すべきである」という物語は自由主義である。このように多くの物語によって人は連帯し、村や国家を形成してきた。
 

 人は物語なくして連帯できない。地震や津波といった災害は、1人ではどうにも太刀打ちできない。多くの人と連帯する必要がある。そこで必要なのが物語なのである。繰り返しになるが『鬼滅の刃』は、”思い”という物語によって同時代の人と連帯する。また同じ”思い”を持った過去の人は、鬼を倒す剣技である「呼吸」を伝承した。これにより竈門炭治郎たちは、過去の人とも連帯した。同時代の人と過去の人と、”思い”によって連帯することで、鬼殺隊一行は鬼舞辻無惨という災害に打ち勝つのである。”思い”という物語によって連帯する様子は、まさに人文的である。

理系(鬼)VS文系(鬼殺隊一行)

 鬼舞辻無惨率いる鬼たちは、強い肉体、不老、驚異的自己治癒能力など、生物的な強さで向かってくる。また鬼舞辻無惨の血によってつながる様子は、遺伝を想起させる。一方で鬼には鬼殺隊にみられるような連帯は微塵もない。その意味でやはり理系的な要素が多い。
 対して、鬼に比べて弱い人間は、連帯することでつながる。この連帯は同時代の人だけでなく、過去の人との連帯を含む。この連帯を可能にしているのが、作中では”思い”という言葉で表現される物語である。物語によって協力し合う様子はまさに文系的である。

 理系的鬼と文系的鬼殺隊。このように『鬼滅の刃』は理系VS文系のような構造があるのである。

おわりに:鬼舞辻無惨はまさに災害であった

 鬼はもともと災害のメタファーだった。鬼舞辻無惨本人が述べるように。

 地震、津波、パンデミックといった災害は、人間が1人で太刀打ちできるようなものではない。過去の人が残した教訓から学び、同時代の人たちと連帯して対処する必要がある。鬼舞辻無惨もまさに人間1人ではかなう相手ではなかった。過去の人が残したものを受け継ぎ、同時代の人と連帯し、なんとか対抗することができた。鬼舞辻無惨はまさに災害なのである。
 
 さて、鬼舞辻無惨のような災害は、現在の私たちの前に存在している。地震や津波、パンデミックが現時点で存在している。さらにいえば戦争もそうかもしれない。これら災害は、1人の人間だけでは到底太刀打ちできない。連帯する必要がある。過去の教訓から学ぶ必要がある。ここまで紹介してきたように連帯するには、物語や歴史といった人文的なものが必要不可欠である。文系学問が不要であるといわれる昨今であるが、やはり私たちは、過去の人が残した”思い”という教訓を大切にし、また現在の”思い”を未来に紡いでいくことが大切なのかもしれない。