『孤独のグルメ』の主人公、井之頭五郎は空腹を満たすときつかのまの幸福を得る。同じくグルメ漫画の『忘却のサチコ』の主人公、佐々木幸子は空腹を満たすとき、結婚式当日に自分のもとを去った婚約者、俊悟さんのことを忘れることができる。
『ドラゴンボール』の悟空や『ワンピース』のルフィは空腹の状態だとまともに戦うことができない。
現代社会では、多くの人が空腹を満たすために、それほど好きでもない仕事をして食費を稼ぐ。空腹はときに人をイライラさせるし、判断力と気力を奪う。一方で空腹が満たされるとき、つまり食事の時間は多くの人にとって幸福なひとときだ。
われわれ人間を支配しているこの空腹。これはいったい何なのか。この空腹について人類史や社会学、社会思想など、さまざまな側面から考察していくのが、本記事の主題である『空腹について』という本だ。
著者は農学原論、社会思想史を研究する雑賀恵子。氏の以前の著書である『エコ・ロゴス』は以前このブログでも紹介している(【書評】雑賀恵子著『エコ・ロゴス―存在と食について』)。
今回の『空腹について』は、その内容はエッセイ的であり議論の余地があるかもしれない。それでも「空腹」という何気ない生理現象を、戦争や食人、肉食、残飯屋、従属論などあらゆる側面から考察してくれる非常に刺激的な一冊だ。
本記事ではそんな『空腹について』の内容紹介もふくめて、とくに印象に残った論考について紹介できればと思う。
「空腹」という感覚がわからない人たち
空腹とはどんな感覚だろうか。言葉で表すなら、ちょうどお腹にあたりに、何かが足りないような感覚だろうか。
そんな感覚として空腹を、考察していくのが第一章の「空腹の謎」である。その章でとくに驚かされたのが、空腹を感じたことがない人々が存在するということだ。
著者の雑賀は大学教授をつとめているのだが、飢餓の授業をした際、空腹を想像できないという学生が相当数いたという。実際どれくらいの数がいたのかはわからないが、ある程度の数がいたのだろう。それにしても空腹という感覚を想像できないというのは驚かされる。生きていれば当たり前のように、感じるものだと思っていたから。
空腹を想像できない人がいることについて著者は、常に食べ物がある状態に生きており、空腹を感じる前に何かを食べる生活が当たり前になっているから、空腹状態がないのではないだろかとまず考察しつつ、その後に以下のように論じる。
空腹状態がまったくないわけではなく、それを意識化することがない、気づきがない、ということであるならば、自己の身体への配慮が、希薄であるということに繋がっていくだろう。
<略>
自己の身体への配慮が希薄であるとするならば、身体は、外部と内部を隔てる、あるいは取り結ぶフィールドであり、かつ、外界の情報を知覚して入力していくものであるから、他者への配慮も同時に希薄である、と考えることもできる。
「他者への配慮も同時に希薄である、と考えることもできる」。
つまり空腹なのに、それが空腹だと気づけないのは自己の感覚に鈍感であり、そういった人は他者への配慮も希薄なのではないか、というのだ。
たとえば痛いという感覚を感じたとき、自分が痛いなら他の人も痛いはずだ、と他者の感覚を想像することができる。これを経て他者に配慮することを学ぶ。一方で自分の感覚に鈍感な人は、他者の感覚も想像できない。他者への配慮も希薄なのではないか、と論じているのだ。
この点については100%賛成できるものではない。たしかに自分が感じる一つひとつの感覚を意識化していくことは、他者を配慮するきっかけにもなるだろう。しかし、自分の空腹には敏感である一方で、他者に配慮できない人はたくさんいるのもまた事実だろう。たとえば私の親父は「腹が減った」とよく怒鳴り散らしていた。自身の空腹には自覚的であるが、他者への配慮は皆無であったのだ。
それにしても、当たり前だと思っていた「空腹」という感覚について、それを想像できない人がいるというのはとても意外だった。空腹を想像できないという感覚がむしろ想像できない。
常に食べ物がある状態だから空腹がわからないのか。それとも著者がいうように、空腹を意識していないのか。
もしその両方だとしたら、現代社会は空腹を意識する余地がないほど物質的には豊かになったが、自身の感覚に鈍感で他者への配慮も希薄になり、感情的には乏しくなってしまったと、いえるのかもしれない。物質的には豊かだが感情が粗末な社会なのかもしれない。
空腹を満たすために人は人を食ってきた
第三章の「空腹を満たすために」では、空腹を満たす行為として「食人」を考察している。
食人は文字通り、おぞましい行為であり、忌避されるべき行為の筆頭である。想像するだけで吐き気をもよおすほど気持ち悪い行為だ。他方、人類史をみてみると、食人はありとあらゆる時代、地域で行われていた。日本だって例外ではない。
もし人間が、食人に強烈な嫌悪をいだくようにインプットされているなら、食人なんて行われるはずがない。しかし食人は行われてきた。つまり食人に対する嫌悪は人間にもともと備わっているものではないのだ。
現代社会の人間が食人に嫌悪をいだくのは、現代社会が食人を絶対的タブーにしたからだ。「食人はおぞましい行為である」という社会の掟が確立したからだ。だから、われわれは食人を嫌悪するのだ。けっして生まれながらにしてある感覚ではない。
それは一方で、人間は放っておけば、空腹にまかせて同種である人間を食ってしまうということを意味する。本書でもそのように論じている。極限にまで腹が減り、食べるものがなければ、人間は人間を食うのだ。
食人を考察するこの章では、空腹という感覚がいかに人間を暴走させるかを知らしめてくれる。
ちなみにこの章の最後では、「恐ろしいのは食人をせざるを得ない状況をつくった社会にある」と書いている。まったくそのとおりだ。
人体を食糧にする日がくるかもしれない
食人を考察する章ではもう、ひとつ興味深いことを語っている。それが以下の一文だ。
現在の地球人口と資源、及び生産形態から見れば、いずれ、人体を食糧資源として考慮に入れなければならないとする議論が確実に出て来るだろう。
「人体を食糧資源として考慮に入れなければならない」。
つまり人口増加と環境破壊によって人間は動植物から食料を得ることができなくなり、人間の身体を食料にしなければいけない日がくるだろう、といっているのだ。
納得できる話だ。
フランスの思想家であるジャック・アタリは『食の歴史』という著書のなかで、似たようなことを論じていた。ジャック・アタリは、このまま人口増加と環境破壊が続けば、50年後くらいには食べ物がなくなるかもしれない、そして食料がなくなったとき、人類は幹細胞を使って自身の臓器を増やし、増やした臓器を自分で食べるという「究極のカニバリズム」をする日がくるかもしれない、と論じている。
ハンス・ロスリングの著書『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』では、人口が増加し続けることはないといった趣旨のことを主張していた。それが正しいとしても、環境破壊で食糧生産が頭打ちになる日はほぼ確実に訪れるだろう。また動物福祉の補足範囲が広がれば、動物だけではなく、虫も植物も殺すべきではない、といった考えにたどり着く可能性だった十分にある。
そして幸いなことに、科学技術の進歩によって、自分の細胞の1つから臓器をつくったり、肉をつくったりできるようになる日は訪れるだろう。ちょうど培養肉をつくるように、人肉の培養肉を作ればいいのだから。
そうなっとき、われわれ人間が食べるのは、おそらく培養した自分の肉だろう。もしくはアンパンマンのような、身体の一部を食糧として供給し、足りなくなったら作って取り替えるというサイクルを延々と繰り返す、不思議な生き物が生まれているかもしれない。
グローバルな空腹について
本書の最後の章は「グローバルな空腹」として、世界の食糧配分の不均衡について論じている。食糧の廃棄が問題になる国がある一方で、食糧がなくて餓死する人が大勢いる国がある。この矛盾、グローバルな空腹問題について考察している。
世界的にみれば、現在はすべての人口をまかなえるほど食料は生産できているという。他方で餓死する人がいるのは、その分配が正しく行われていないからだ。一部の国、地域に食糧が集中しており、貧困状態の人には届いていないのだ。
ベストセラーとなったハンス・ロスリングの著書『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』では、ここ50年ほどで世界の貧困は激減していると論じている。イメージとは違って、世界はそれほど悪化していないのだというわけだ。それでも未だに貧困にあえいでいる人々がいる。そして食糧分配の不均衡があるのもたしかである。
ではなぜ食料分配の不均衡が起きてしまうのか。本書では、その原因を近代化論や従属論に言及して紹介している。大雑把にいえば、旧植民地の国が、先進国向けに農産物を輸出したり、工場における労働力を提供したりすることで従属する形になってしまう。固定化してしまった従属関係、主従の構造が、グローバルな貧富の差を固定化させているのではないかというものだ。
グローバルな不均衡を解決するには、先進国が旧植民地国の安価な労働力に依存することをやめ、また旧植民地国は、先進国の購買力に依存するのをやめなければいけない。しかしそれを取り持ってくれる国際機関や、各国に国々の政治が必要だ。
本書は思想書なのでグローバルの空腹、つまり貧困問題について、こうすべきだと声高に主張したりはしない。そうではなく思想的にわれわれができることを示す。具体的には、「自分に起こる感覚を通じて他者を配慮する」ことを主張する。
重要なのは抽象化された大問題ではなく、それぞれの個人がいまここに在るということであり、どの個人(たち)と共に立つかということである。
<略>
個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理(エチック)から想像を他者に投げ掛けること。
そうしたエロスの投網によって他者の苦痛を新しく見いだす営みを持続させること。
それが知るということである。
他者を理解することはできない。しかし……他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである。
人間は空腹に振り回される
本書は空腹という些細で日常的な感覚から、他人の感覚を配慮し、また空腹を世界の貧困問題、食人、肉食、戦争から考察するものであった。空腹によって、他人と世界と、過去と接続されていく。
空腹は人間の三大欲求の1つである、食欲に根ざしたものだ。人間は空腹を満たすことを、重大ミッションの1つとして生活を営んできた。であるならば、空腹が世界や他人、過去と接続しているのは当然なのかもしれない。
人間は空腹に振り回される。これまでの人間がそうであったように、これからの人間も。