LAの食から食の多様性と画一性を捉え直す『LAフードダイアリー』(三浦哲哉著)|内容紹介と感想

 多様であることは、あらゆる場面でよしとされる。食の世界でも同様だ。牛丼やハンバーガー、蕎麦や寿司だけでなく、中華もエスニックもフレンチもイタリアンも、ありとあらゆる選択肢があることは良いことだと当たり前のように思っている。しかし、経済格差が浮き彫りなった近年のアメリカでは、ときに多様を称賛することが批判されるという。

 食の多様性とはなにか。批判されるべきものなのか。食の多様性について、LAでの滞在と現地の食から考え直すがのが、『LAフードダイアリー』である。著者の三浦哲哉 は映画研究家でありながら、料理のレシピ本を批評的に考察した一冊『食べたくなる本』を執筆したこともでもしられる。本書は著者がサバティカル(使途が問われない長期休暇)で滞在したLAで、食べたもの、見たものをつづったエッセイかつ、都市論である。

 著者がLAを長期休暇の滞在地に選んだ理由の1つは、その実験性に興味があったからだとしている。アメリカは、様々な大陸、国からの移民によって作られた実験的な国会であり、移民たちは元の国の文化を持ち寄り、それらを統合させたり、まったく別のものに作り変えたりしてきた。それは食の分野にもみられるという。その実験がアメリカのなかでもとくに過激に進められたのが、LAであるという。著者はそんなLAの実験性に惹かれて、この地を選んだ。

 本書の前半は、日本の季節感のある寿司と、季節感がないLAの寿司などを例に、日本の食との違いに言及している。中盤では、メキシコと国境を接するLAにおいてローカルフードになっているタコスや、ザ・アメリカ食ともいうべきバーベキューについて触れる。バーベキューが、北米にとって欠かせない文化の1つであるとしており、多くの家には当たり前のようにバーベキューセットがあり、気軽に人を呼び、料理を振る舞うのだという。また州によってバーベキューのスタイルに違いがあり、図書館を訪れればバーベキューにかんする本がたくさんあるという。バーベキューの奥深さと、北米文化との密接な関わりがわかる。

 さて、後半9章では、著者の専門分野である映画についての話題がある。そしてこれがなんとも面白い。「映画と牛の関係について」と題した9章では、「映画は牛である」という主張がなされる。なぜ映画が牛なのか。それは映画のフィルムは、牛から採集されるゼラチンが原料になっているからだ。つまりフィルム映画をつくるには、牛の存在が欠かせない。目からうろこである。そして、食肉産業があったからこそ、フィルムの原料となるゼラチンを調達することができ、映画産業も盛り上がったのだと述べており、映画産業と食肉産業の密接なつながりが論じられる。

食の多様性の賛美が批判される理由

 最後の12章では、本書の主題である食の多様性と画一性について論じられる。

 グローバル化によって世界各地で同じものが食べられるようになる食の画一化。食の画一化は、「グローバル化」「大量生産」「大量消費」といったワードと結びつく。一方で、そんな画一化が行き過ぎたときに注目されるようになったのが、地元の食材を使った料理を出してくれるお店や、地域や国の伝統を重んじた料理など、多様性と結びつく動きだ。これは「スローフード」や「エシカル」などの言葉と結びつく。そして食の多様性と画一性は、対立する概念だと考えられている。

 冒頭でも書いたように、アメリカでは食の多様性を賛美することに対して批判が向けられることがある。いったいどんな批判があるのか。本書では以下のように説明している。

「多様」な美食にあずかれるのは、「既得権益」にあぐらをかく「エリート層」である。異文化体験のために高価なレストランに通ったり旅行をしたりする層は、マイナーな味を楽しんでいるというが、マイノリティが実際にどんな暮らしをしているかには表面的な関心を寄せるばかりで、ほんの上澄みの、自分たちが「許容」できる一部分を賞味しているだけだ。

 「ファストフードはバッドで、スローフードがグッド、あるいは、それへのカウンターとして、スローは既得権益層のアスホールで、ハンバーガーとケチャップのオレらこそリアル」という表現で、食の画一性と多様性の対立を説明する部分もある。

 一方で本書は、前述のような画一性と多様性の対立を解体し、新たに捉え直すことを提案している。

食の多様性は画一性に支えられている

 そもそも食の多様性は、生活の画一化の上に成り立っている。そんな主張がなされる。

 たとえば、アメリカでは19世紀から20世紀にかけて、鉄道網の発達と移動冷凍庫などの技術革新が起こった。これはインフラの画一化である。そしてこの技術革新によって、ある1つの地域で製造された肉を、各地に配送できるようになった。一時期まではローカルフードであった肉が、技術革新によって、アメリカ全土にひろがり、画一化していった。さらに、 鉄道網の発達と移動冷凍庫の普及という画一化によって、あらゆる地域のあらゆる食べ物を取り寄せられるようになり、食は多様化した。たしかに、スーパーマーケットに、365日、あらゆる地域から取り寄せされた色とりどりの食材が並んでいるが、これは鉄道網や冷蔵技術が完備される以前には考えられなかったことだろう。食の多様性は、配送網や冷蔵技術といった画一化によって支えられているといえる。

 ちなみにこのような多様性と画一性が折り重なる様子は、石川伸一は『「食べること」の進化史~培養肉・昆虫食・3Dフードプリンタ~ (光文社新書)』のなかで、「多様性と均質性のパラドックス」として説明している。これは食の均質性のなかに多様性が生じることである。そのわかりやすい例がハンバーガーである。アメリカで発展したハンバーガーは、マクドナルドが登場、マクドナルドがグローバル化することによって世界中にひろがり、均質化した。てりやきマックバーガーのような日本独自のハンバーガーが生まれ、韓国ではキムチバーガー、インドではベジバーガーが生まれた。

 他の食べ物でも同じこといえるだろう。たとえば近年、バスクチーズケーキという、スペインのサンセバスチャンでみられたチーズケーキが日本や、その他の国でも話題になった。スペインのローカルフードが、均質化したのだ。一方で、日本でも流行ったバスクチーズケーキは、そのうち抹茶バスクチーズケーキという、日本独自のものを生み出した。均質化したバスクチーズケーキが、ローカライズされ多様化したのだ。

 このように、ある食べ物は、ローカルとグローバルを行き来して、均質化と多様化を繰り返す。石川伸一はこれを「多様性と均質性のパラドックス」 と呼んでおり、『LAフードダイアリー」における、多様性と画一性の捉え直しと連関する部分が多くある。

食が多様であるためにはある種の閉鎖性が必要である

 本書では多様性の見直しも提案する。これまで、食の多様性を擁護する派閥は、マクドナルドのハンバーガーのような画一化の権化のような存在を批判してきた。一方、本書では、そういった画一化の権化のような食べ物すら内包する、多様性の概念を打ち出す。

 本書でそれは「貧しさの多様性」という言葉で表現する。いったいどんな多様性なのか。たとえばケチャップは大量生産大量消費のイメージと結びつき、画一化の代表として捉えられる。決してスローフードやエシカルフードとは結びつかない。一方で、個々の人間の食体験をみたとき、ある人にとってケチャップは、俗にいう「思い出の味」である可能性がある。他にもインスタントラーメンやマクドナルドのハンバーガーは、どちらかといえば画一化側の食べ物であるが、学生時代のお金がないときによく食べたインスタントラーメンの味が忘れられないという体験をもっている人にとっては、それは特別な食べ物、嗜好としてその人に刻み込まれる。

 このように、画一化と結びつく食べ物であっても、人によって特別な嗜好になっている場合が往々にしてある。そして他の人に理解してもらえないという意味において閉鎖的であり、一見、多様性とは対局にあるように見える。しかし、著者はこういった個々の人間に無数に存在する閉鎖的で特殊な嗜好も、総体として捉え、多様性として擁護できるのではないかと、主張する。

いかんともしがたいものに出会い、場合によっては中毒に陥り、慣れたあとは反復を余儀なくされる──そのように受動的な習慣形成がまずある。こうして形成された、ある閉鎖的な嗜好が、ばらばらに複数ある。それを総体として想像し、肯定しようとすることが、この場合の「多様性」を擁護する態度だと言えるだろう。

 先に説明したような閉鎖的な多様性を、本書では「貧しさの多様性」と表現している。「貧しさの多様性」は閉鎖性と受動性によって特徴づけられる。一般的にイメージされる、選択肢が多く、開けていることを表す多様性を「豊かさの多様性」と表現している。一方の「貧しさの多様性」は、先のインスタントラーメンのような、過去の経験から受動的に獲得した閉鎖的な嗜好である。

 最後に本書は、「食が多様でありうるためには、個々の味にある種の閉鎖性がなければならない」と述べている。多様であるためには閉鎖性がなければならないという、一見矛盾しているように見える。たとえばLAでは、コリアンタウンで生まれた人は、一切英語を覚えることがなく、韓国料理を食べ続けることで生活することができるという。そして、コリアンタウンのような閉鎖性が保たれた場所がLAにいくつもある。たとえば日本人街や中国人街やユダヤ人街など。このようないくつかも存在する閉鎖的な場所があるからこそ、LAは、和食にも中華も韓国料理も、なんでも食べられる、多様性が担保された街になっている。LAの多様性は、閉鎖性によって成り立っているというわけだ。

おわりに:日本でも日々行われる食の画一化と多様化

 筆者が好きな食べ物の1つにケバブサンドがある。ケバブサンドは、主にトルコでみられる、ピタパンに肉を挟んだ、ファストフードである。「ケバブ」は焼いた肉を表す言葉で、焼いた肉をサンドしていることからケバブサンドと呼ばれている。発祥はトルコではなく、トルコからドイツに移民した人が屋台で提供しはじめたのが発祥だという説がある。ゆえにトルコだけでなくヨーロッパでも、よくみかけられる食べ物だという。他にもアジア地域でよくみられる。

 東京にもいくつかお店があり、筆者は何十軒とまわりその味を堪能した。まだまだ日本では知名度は高くないが、日本にまで伝わっていることを考えると、ケバブサンドは世界的に画一化しているといっていい。そんなケバブサンドは、店によっては、テリヤキ味というものを用意している。店主はおそらく日本人ではないのだが、日本人向けに用意してくれているのだろう。トルコからヨーロッパ、アジア、そして日本にひろまったケバブサンドは、今では日本でローカライズされ、多様化した。

 食べ物のトレンドを追っていくと、日本は世界のローカルフードを節操なく取りいれていく部分がある。1990年代に大ブームになったティラミスはイタリアのデザートだし、最近流行ったタピオカや台湾カステラ、魯肉飯などは、台湾の食べ物である。そして前述のバスクチーズケーキはスペインの食べ物である。そしてそれら食べ物を、日本はあっという間に日本風に作り変える。日本はLAに負けず劣らず、多様と画一の間を頻繁に往復しているのではないだろうか。多様性に不寛容に見える日本であるが、食だけは多様に存在する不思議な国だ。日本の食からも、多様性を捉え直す余裕はまだまだあるのではないだろうか。そんなことを考えながら本書を読んだ。