これまで『はじめての構造主義(橋爪大三郎)』『レヴィ=ストロース入門(小田 亮)』など構造主義に関する本を読んだが、先の二冊と比較すると、『寝ながら学べる構造主義(内田 樹)』はとても読みやすい本であり、構造主義の入門書としては最適なのではないかと思う。
というのも抽象的な専門用語が少なく、わかりやすい具体的を交えながら哲学的思想の解説がなされているからだ。
たとえば、ソシュールの言語論の解説では、「肩が凝るのは日本人だけ」という章をもうけて解説している。たとえば日本語話者は、仕事のストレスを肩に感じ、そしてその現象を「肩が凝る」と表現する。一方で英語話者は、同じ現象を「背中が痛む(I have pain on the back.)」と表現する。これはつまり、英語話者が仕事のストレスを背中に感じているということだ。まったく同じ身体現象であるにもかかわらず、使う言語によって、傷みを肩に感じるか、背中に感じるかが違う。つまり、言語によってわれわれの経験が規定されているということだ。これがソシュールの言語論の一部だ。
話を戻すと、本書はこのような身近で理解しやすい具体例をあげて、思想の1つ1つ解説してくれている。難解な哲学書だと、具体例がなく、抽象的で難解な熟語を見せびらかすかのごとく書き連ねており解読するのに苦労する。
一方で本書はそういった書き方はしていない。タイトルどおりまさに構造主義を「寝ながら学べる」一冊であり、構造主義の入門書に最適である。
さてこの記事では、『寝ながら学べる構造主義』の全体の流れを解説するとともに、本書を読んだ感想を紹介していく。本書の概要だけでなく、構造主義について、触りだけでも学べるものがあるのではないかと思う。
『寝ながら学べる構造主義』の解説
構造主義とは何か?
全体の流れとしては冒頭第一章で「構造主義とは〇〇という思想である」といったこと説明される。
該当部分を紹介すると、以下の通り。
構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。
上記が本書の一章で紹介される、構造主義についてだ。非常にわかりやすい。
構造主義のベースになった3つの思想
また一章では、その構造主義の源流にあった思想として、以下の3つの思想をあげている。
- マルクスの「どの階級に属するかによって、ものの見え方が変わってくる」という思想
- フロイトの「人の判断や行動は無意識に支配されている」という思想
- ニーチェの「過去の時代の感受性や身体的感覚は、今を基準にしては判断できない」というような、系譜学的思考
この3人の、上記の3つの思想が構造主義の地ならしをおこなったと本書では紹介している。
たしかにこれらの3つの思想は、人間は自由に考えることができ、自由に行動できるといった人間の主体性を否定する構造主義を連想させるものがある。
ただし本書では、上記3つの思想はあくまで構造主義を生まれる風土を醸成したにすぎないものであり、「構造主義の直接の淵源と言うことはできません。」と論じている。
ちなみに橋爪大三郎の『はじめての構造主義』では、他にもカントの批判哲学や非ユークリッド幾何学、遠近法なども、紹介されており、これら数学的な理論や発見も、構造主義の思想の源流にあるとしている。さらに深く構造主義を学ぶならこちらもおすすめだ。
構造主義の起源ともいえるソシュールの言語学
「狭義での構造主義の直接の起源とされている」ものとして本書で紹介されるのは、ソシュールの言語学だ。
ソシュールの言語学は、「ことばはものの名前ではない」という思想である。これは言葉によって、ものの見方、ものの概念が変わってしまうという考え方だ。冒頭にあげた、「肩が凝るのは日本語話者だけ」という例も、この章で紹介されている。
これは、話す言語によって、物事の見え方や感受性が規定されてしまうということだ。われわれは自由に発想し、自由に物事を感じていると思っているが、結局、言語に規定された世界でしか物語を見ていないということだ。扱う言語によって物事の見方や感じ方が変わるというのは今日では、割と当たり前に認識されていることではあるが、それはソシュールの言語学が発端なのだ。
そしてこの思想は構造主義の直接の起源として、本書では紹介されている。
たしかに扱う言語による認識の偏りは、構造主義の「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。」というのとまさに通底している。
ただし、この頃の構造主義的な見方は言語学に限定されていた。それが戦後になると、他の領域にも飛び火し、普遍的な知的権威を獲得することになるという。
構造主義は言語学から別の領域へ
第三章では、構造主義を言語学の領域から別の領域へ横展開させた人物として、以下の4人をピックアップしている。
- クロード・レヴィ=ストロース
- ジャック・ラカン
- ロラン・バルト
- ミッシェル・フーコー
この4人を「構造主義の四銃士」として、その思想を紹介している。そして4人の思想を大雑把にまとめると、「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」ということになる。
これらの思想は、実存主義の人間の主体性に根ざした、人間中心主義、自分中心主義、現在中心主義を否定するものである。
フーコー
たとえば、フーコーは歴史的事象に向き合うためには、歴史として語られることだけに向き合うのではなく、歴史として語られなかったこと、歴史からは排除されたことに向き合う必要がある、といった主張をした。
ロラン・バルト
またロラン・バルトは、エクリチュール(社会的に規定された言葉の使い方 参照:http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1132.html)という概念から、人間は主体的ではなく、エクリチュールの囚人である、と論じている。大雑把に説明すると、一人称を「ぼく」から「オレ」に変えると、「オレ」という人称にふさわしい振る舞いやものの考え方になっていく、ということだ。
レヴィ=ストロース
そして構造主義の代表的人物として知られるレヴィ=ストロースは、第五章で解説される。
冒頭は実存主義の否定。
続いて
- 音韻論(世界中のすべての言語が十二ビットで表現できる)
- 親族論(すべての親族関係は二ビットで表せる)
- 贈与論(人間社会は同じ状態にあり続けることができない、私たちが欲するものはまず他者に与えられなければならない)
これらの解説があり、レヴィ=ストロースによる構造主義の思想がわかるようになっている。
ちなみに橋爪大三郎の著書、『はじめての構造主義』では、レヴィ=ストロースの解説において、数学的な思考との関係を説いているが、本書では数学的な話は一切紹介されていない。それはおそらく本書が手軽学べる入門書を想定しているからだろう。しかし数学的な話がまったくないのは、生粋の文系である筆者にとっては優しいものであった。
ジャック・ラカン
そして最後の六章では、ジャック・ラカンの分析的対話が紹介される。ラカンの哲学は難解といわれているそうなのだが、その難解な思想がわかりやすく解説されている。
本書で解説されているジャック・ラカンの思想をまとめると、「この世界はすでに分節されており、自分は言語を用いる限り、それに従うほかあい、という世界に遅れて到着したことの自覚を刻み込まれることをも意味しています。」となる。
さらに換言すれば、この世界は理不尽に分節・分断されており、それを受け入れて生きるほかない、ということでもある。
もちろんさわりだけではあるが、入門的にラカンの思想を学べるのありがたい。
『寝ながら学べる構造主義』感想
レヴィ=ストロースの思想に興味があって、構造主義の入門書を開いてみたのだが、蓋を開けてみると、それは今日では当たり前のこととして語られることであった。
つまり、『寝ながら学べる構造主義』の感想をまとめると、「当たり前のことが書かれていた」となる。
人間の考えや行動、感じることは、育った環境や参加しているコミュニティ、扱う言語によって支配されるという言説は、今では当たり前のように言われていることだ。さらに進んで、最近は「人間は細胞の乗り物でしかない」といった言説もある。
とにかくわれわれ人間の主体性などというものはたかがしれているという言説が当たり前になっている(もちろんそういった言説を無視しして、自己責任論を振りかざしている人はやまほどいるが)。
書いていることは当たり前のことかもしれない。しかしその当たり前に至るまでの過程を、思想を学ぶ価値は大きい。
本書の「はじめに」では、『よい入門書は、まず最初に「私たちは何を知らないのか」を問います。』と書かれている。本書はまさに、私たちが今日の当たり前が完成した過程を知らないことに焦点を当てている。つまり何を知らないのかを問うているといえる。
その意味では、本書はよい入門書の好例であると、僕は思う。