なぜ肉を食べない人が増えているのか?|動物倫理、環境問題など食肉に起因する問題をまとめて紹介

 カフェやレストランでは、ビーガンメニューが少しずつ見られるようになり、スーパーやコンビニでも大豆ミートやプラントベースチーズといった言葉をみかけるようになった。そして肉を食べることを止める人、肉を食べる機会を止める人が増えている。これは「肉を食べるのをやめるべきである」、あるいは「肉を食べる量を減らすべきである」という意見が背景にあるからである。

 ではいったいなぜ肉を食べるのを止める人、肉を食べる機会を減らす人が増えているのか。一度、まとめることにした。

 その理由は大きく次の5つに類別できる。

  • 動物倫理・動物福祉のため
  • 環境問題解決のため
  • 分配の問題を解消するため
  • ジェンダー問題を解決するため
  • 健康改善のため

以下、詳しく解説していくが、本記事は決してヴィーガンを推奨するものではない。現在の肉食をとりまく環境がどうであれ、個人の自由を私は尊重している。本記事の目的は、単に現在なぜ肉食を止める人が増えているのか、その理由をまとめることにある。

動物倫理・動物福祉のため

 食肉をやめるべきでという主張の根拠の1つが、動物倫理・動物福祉的な理由による。動物倫理は動物の生を尊重し、動物に苦痛を与える畜産をやめるべきであるという意見である。動物福祉は、食肉そのものを批判するのではなく、劣悪な環境で飼育するような動物の福祉を無視した畜産を批判する。

動物倫理からの主張

 まず動物倫理であるが、これは動物が痛みを感じる能力があることや、自身の生を自覚している自律した存在であることを根拠に、動物に苦痛を与える畜産をやめるべきである、すなわち食肉をやめるべきだと主張する。畜産は動物に多大な苦しみを与える。身動きも取れないような小さいスペースで飼育する集約型の飼育方法はもちろんのこと、広い土地に放牧する飼育方法であっても、動物の自由を奪い、最終的には殺してしまう。しかも多くは寿命を全うすることなく。

 動物の多くは、私たち人間と同じように苦痛を感じる能力があるとされている。また自らの生を主体的に生きる存在でもあるとみなされている。私たち人間が他者に対して、むやみに苦痛を与えないのは、相手も自分と同じく苦痛を感じるはずでだという前提と、相手を1人の人間として尊重しているからである。もちろんそれが理解できない人間も大勢いるが、ひとまず自分と同じ感覚器官を他者も持っているという前提があり、だからこそ他者に正当な理由なく苦痛を与えることは倫理に反するのはもちろんのこと、法律でも禁止されている。

 人間と同じように動物も苦痛を感じるとされている。ならば動物に対しても苦痛を与えないように配慮すべきではないだろうか。他者を1人の人間と尊重するのであれば、動物も同じように尊重するべきではないか。

 このように動物倫理の観点から食肉をやめるべきであるとする意見の多くが、動物が人間と同じように痛みを感じる能力があることや、主体的に生きる存在であるとを根拠にしているが、次のような反論もある。すなわち遺伝子操作を使って痛みを感じない動物を生み出すことができた場合、その動物は食べてもいいのか、そもそも痛みを感じない動物はいくら食べてもいいのか。魚はいいのか、虫や植物はどうなのか、食べてはいけない生き物の範囲をどこまで広げるのかなど。

 このような反論に対しては、次のような応答がなされている。つまり、痛みを感じる能力の前に、動物は決して何かの目的を達成させるための手段として存在しているわけではない。多くの動物は自らの生を主体的に生きており、その存在自体に価値があるとされている。何かの手段のためではなく、生それ自体が目的なのである。人間と同じように。ゆえに動物の生を尊重するべきなのである。ただし、この主体的に生きる動物の範囲をどこまで広げるかについては、適宜、最新の科学の知見に基づいて修正されるべきだとされている。

 ここで紹介した内容のほとんどは、田上孝一の『はじめての動物倫理』を参考にしている。肉食の是非だけではなく、動物との付き合い方について、倫理学的な観点からとてもわかり易く解説している。詳しく知りたい方はぜひ参考にしてほしい。

現在の劣悪な畜産のあり方を批判する動物福祉論

 動物福祉は肉食の一切を拒否するわけではない。動物福祉論者が批判するのは、CAFO(Concentrated animal feeding operation)と呼ばれる集約的な畜産である。現在多くの畜産は、狭いケージで、劣悪な衛生環境のなかで飼育するような畜産が大半である。このように動物の福祉に配慮せずに生産された肉は食べるべきではないというのが動物福祉の意見である。逆に、放牧のような動物福祉に配慮した形で飼育された動物の肉や、道路で偶然はねてしまった動物は食べても仕方がないとしている。

※本項の参考資料
はじめての動物倫理』田上孝一
食物倫理(フード・エシックス)入門: 食べることの倫理学』ロナルド・L・サンドラー
動物の開放』ピーター・シンガー
食農倫理学の長い旅: 〈食べる〉のどこに倫理はあるのか』ポール・B・トンプソン

環境問題解決のため

 食肉をやめるべきという意見の根拠として、おそらくもっとも支持されているのが環境問題の観点である。食肉がどうして環境問題とかかわるのだろうか。食肉は主に次の5つの問題の一因になっているとされている。

  • 温室効果ガスの排出
  • 資源の枯渇
  • 水質汚染
  • 森林破壊
  • 種の絶滅

畜産は多大な温室効果ガスを排出する

 畜産は温室効果ガス排出の主な原因になっているとされており、畜産によって排出される温室効果ガスは、全世界の飛行機、自動車、鉄道から排出される温室効果ガスの量を上回るとされている。全体の温室効果ガスの排出量のおよそ20%前後が、畜産が原因だとされている。

 これは主に家畜のオナラやゲップに起因するものであるが、他にも商品として食肉を配送する時に排出される温室効果ガスや餌の製造・輸送などによって排出されるものである。

水、土地、穀物を大量の資源を消費する

 食肉の生産には、大量の水と広大な土地と、餌となる大量の穀物が必要となる。例えば牛肉1キロを生産するのに必要な水の量はトマトの77倍とされている。ハンバーガーを1個作るのに2500リットルの水が必要だとされている。

 また世界中の穀物の約50%が家畜に供給されている。飢えに苦しむ子供の多くが家畜の餌となる穀物を栽培しているという意見もある。家畜の餌を栽培するために、広大な土地が使われており、家畜の放牧とその餌を生産するために、毎秒アメフト場ほどの熱帯雨林が失われているという意見もある。

 現在の畜産は、多大な資源を必要とする非常に非効率なものである。本来、畜産は人間が食べることができない牧草を動物に食べてもらい、乳、あるいは肉としてその分け前をもらう。人間が消化できない植物性エネルギーを動物によって動物性エネルギーに変換する効率的な営みであった。しかし現在は家畜の数が膨大になり、大量の水、食糧、広大な土地を消費するようになっている。水や食糧がなくて飢えている人々がいる一方で、大量の水や食糧を消費している動物がいるのである。

森林破壊と種の絶滅の一因になっている

 家畜を飼育するための土地と、家畜の餌を生産するための土地を確保するために多くの熱帯雨林が失われている。アマゾン破壊の90%以上の原因が畜産であるとされている。また土地を保護する活動家がブラジルで殺されており、人権問題にもかかわるとされている。

 熱帯雨林の破壊により毎年最大137種が失われており、さらに家畜保護するために野生動物を殺害してしまう捕食者によって、失われている動物もいる。

水質を汚染している

 畜産動物には病気の予防を目的とした抗生物質や成長を促進させるためのホルモン剤が投与されている。また家畜の飼料には当然農薬が使用されている。

 これらの化学物質は、それを摂取する家畜の糞尿に含まれる。化学物質を含んだ糞尿は、未処理のまま河川に流れ、河川が汚染される。人間にも悪影響が及ぶほか、生態系にも影響を与えている。ジャック・アタリは『食の歴史』のなかで「畜産は水質を最も汚染している」と強い言葉で述べている。

環境問題的理由への反論

 環境問題を理由にした食肉拒否論には反論もある。例えばそもそも環境問題は起きていないとする意見がある。これは陰謀論じみた意見もあるが、今のところこのままの生活を続けると地球がもたないという意見が支配的である。ひとまず環境問題は深刻化しているという前提で、我々はやるべきことをやるべきだろう。ただし、温室効果ガスの増加や気温上昇などが本当に懸念すべきことなのかどうかは、継続的に検証していく必要がある。

 食肉に関していえば、問題なのは非効率な資源利用を強いているCAFO(集約型の畜産)であり、放牧のような持続可能な畜産であれば問題ないという意見もある。食肉の一切をやめるのではなく、環境に過度に負荷をかけているCAFOをやめるべきであると。

 一方で『人新世の「資本論」』のように環境問題は待ったなしなので、抜本的な変革が必要であるという意見もある。

※本項の参考資料
はじめての動物倫理』田上孝一
食物倫理(フード・エシックス)入門: 食べることの倫理学』ロナルド・L・サンドラー
食農倫理学の長い旅: 〈食べる〉のどこに倫理はあるのか』ポール・B・トンプソン
食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか』ジャック・アタリ
Cowspiracy:サステイナビリティ(持続可能性)の秘密』Netflix
畜産と環境問題|肉の消費を抑えることが、環境保護になる理由とは』Ethical Choice

分配の問題を解消するため

 肉の生産は非常に非効率である。牛肉を100gを生産するには、牛肉100gから得られるよりも遥かに多くの栄養・カロリーを牛に与えなければいけない。さらに現在栽培されている穀物の約50%が家畜の餌となっている。家畜のために栽培されている穀物が人間に供給されるのであれば、100億人の人口を養えるという意見もある。

 先進国の人間が肉を消費することで、本来食物が必要な貧困状態にある人々の食物が奪われているのだとすれば、私たちが肉を消費し続けることは正義だとはいえないのではないだろうか。私たちが肉を食べる量を減らすことで、貧困状態にある人々により多くの食物が渡るようになるのであれば、それは正義だといえるのではないだろうか。

 分配の問題とは、資源を大量に必要とする肉が先進国には有り余るほど存在する一方で、肉はおろか穀物すら食べるものがない貧困地域が存在するという、資源の不均衡の問題である。私たち先進国の人間が肉の消費を減らす、あるいはやめることで、この分配の問題が解消される可能性がある。

 ただしこれは政治の問題もからんでいるので、先進国が肉食をやめれば貧困が減るという単純な問題ではないようにも思える。

※本章の参考資料
食物倫理(フード・エシックス)入門: 食べることの倫理学』ロナルド・L・サンドラー
畜産と環境問題|肉の消費を抑えることが、環境保護になる理由とは』Ethical Choice

ジェンダー問題を解決するため

 肉の消費は実はジェンダー問題にもかかわっている。キャロル J.アダムズはその著書『肉食という性の政治学―フェミニズムーベジタリアニズム批評』のなかで、女性をモノとして消費する男性優位社会と、肉食の文化の関係性を示した。肉を食べる文化と男性優位の家父長制が深く結びついていると主張したのである。

 西洋社会では肉は男性的なものだとされている。動物の尊厳を無視しモノとして扱い、支配しようとする姿勢は、女性を男性のモノとして扱う家父長制社会の姿勢と同じである。動物虐待と女性虐待の構造の類似性や、女性を男性の所有物として捉える姿勢が、動物を人間の所有物として扱う姿勢との類似性がある。そして現在でも根深く残る男性優位社会を打倒するためには、肉食をやめるべきである、そのような主張が存在するのである。

 このような男性優位社会打倒のための肉食の拒否に対して、ロナルド・L・サンドラーは『食物倫理入門』のなかで、次のように述べている。

「肉の消費を諦めることは、家父長制的文化を拒否し、また女性、動物(とりわけ家畜)、自然を物として見ることを拒否するための唯一のやり方ではない、<中略>女性たちは肉を食べるべきなのである。私たちは食べ物のジェンダー化されたあり方を拒否すべきであるが、それは肉をしぶしぶ認めることによってではなく、肉の調理者であるのみならず、肉の消費者でもある権限を女性たちに認めることによってである」

※本章の参考資料
食物倫理(フード・エシックス)入門: 食べることの倫理学』ロナルド・L・サンドラー

健康改善のため

 健康的な理由で肉を食べるべきではないとする主張が存在する。すなわち肉を食べないこと、あるいは肉を減らすことが健康にとっても良いという主張があるのである。この主張については賛否があり、またどちらの主張も根拠に乏しい場合が往々にしてある。また健康に関する問題は個人の生命にかかわることでもあるので、本記事ではこれ以上立ち入らないことにする。詳しく知りたい方は専門書をあたって欲しい。

※本章の参考資料
食物倫理(フード・エシックス)入門: 食べることの倫理学』ロナルド・L・サンドラー

私たちは肉食をやめるべきなのか?

 食肉は環境問題や分配の問題など様々な問題とつながっている。肉食を続けることによって、環境問題が深刻化すれば、次の世代の人々に現在の地球の資源を残せないかもしれない。その可能性があるにもかかわらず、肉食を続けるのは倫理的だといえるだろうか。あるいは肉を食べ続ける行為が、はるか遠くの貧困地域の人々の食物を奪っている可能性がある。その事実を知りながら肉食を続けるのは、倫理に反してはいないだろうか。

 肉食はやめるべきなのかどうか。この回答は論者によって様々である。

『はじめての動物倫理学』は、現在の動物性食品はCAFOによって、環境破壊と動物虐待と切り離せないものになっており、ゆえに卵、乳製品を含む動物性食品を一切やめる、もしくは極力減らすべきだと述べる。ベストな食生活はビーガンなのだと。ただし、今の日本でビーガンを実行するのは困難なので、ビーガンに近い食生活をすること、つまり動物性食品を減らすべきだと述べる。

 また『食物倫理入門』では資源を大量に消費し、倫理や分配、人権問題にもかかわるCAFOの問題点を特に強調している。そのうえで、倫理的な肉の消費はありうるが、肉の大量消費を支えるCAFOはそうではないと述べる。

 肉食はある国、ある民族にとってはアイデンティに深く結びついている。肉食を止めるべきだという主張を、食文化の保持を理由に反論することもできる。実際、肉食は大切な文化だという主張は多方面でも見られる。しかし環境問題が進行し文明がなくなれば、文化は意味をなさなくなる。また誰かを搾取する上でなりなっている文化は、これを継承する意義があるとはいえない。これまで倫理的理由を根拠に消去してきた文化はたくさんある。

 このまま同じように、大量の動物を食べるために飼育し続ける社会を維持することを擁護できる理由は少ない。一切やめるべきとまではいわないが、CAFOという、非効率な畜産は見直す必要があるかもしれない。ただし、それが困難な社会状況である。

現状、肉食をやめるのが困難である

 現状の日本では、肉を一切食べない生活はかなり難しい。そもそも肉の代替品が少なく、また安くない。肉食を拒否すると社会生活がうまくいかなくなる可能性がある。

 またCAFO(集約型の畜産)が問題だとして、果たしてどうやってCAFOによって生産された食品とそうでない食品を見分ければいいのだろうか。仮に見分けられたとして、おそらく値段は高いだろう。現在でも放牧やオーガニックによる肉や卵、乳製品が存在するが、CAFOによって生産された商品の倍以上の値段である。

 いくら環境問題や動物福祉に関心があっても経済的理由で、採用することができない場合が多い。現在の日本では、残念ながら肉を減らす生活は困難である。肉を含めた食事のほうが、社会生活も円滑にこなせるし、経済的である場合すらある。つまり、肉をメニューに取り入れるほうが日常のストレスが圧倒的に少なくて済むのである。

 本当に環境問題や動物福祉の問題を解決するのであれば、この状況をまず変える必要があるのではないだろうか。もちろん個人の意識を変えることも大切であるが、動物性の食べ物がなくても楽に生活できるような環境づくりが先ではないだろうか。

 食肉の倫理的問題や環境問題を学ぶのに以下の2冊がとても参考になった。いずれも、動物倫理の基本的な考え方から、反論、応答まで詳しく紹介されている。