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書評『肉食の哲学』|ビーガン批判と肉食はいかに倫理的であるか主張する一冊

書評・書感

 肉を食べることは倫理的である。

 ビーガンの存在が一般的に認知されるようになった昨今、動物の肉を食べることが非倫理的であるという主張はよく耳にする。しかしその真逆の主張である「肉を食べることが倫理的である」などという主張はめったに見かけない。いったいどういう理屈なのだろうか。

 それを説明してくれるのが、フランスの哲学者ドミニク・レステルの『肉食の哲学』である。

 本書はビーガン批判と肉食の倫理性を主張したエッセイである。

 まず前半ではビーガン(本書では倫理的ベジタリアンと表現される)の、肉食は非倫理的であるという主張を批判する。その理由の1つに、ビーガンは動物の生だけを尊重し、植物や虫などの生を尊重しないというものがある。

 ベジタリアンが動物を食うより栽培された野菜から栄養を得るほうが害が少ないと考えるのならば、彼らは農地を耕すために殺す一本の草、一匹のミミズ、または一匹の昆虫は、一頭の牝牛より重要性において劣ると考えていることになる。だとすればこちらも、なぜ彼らは自分で拒否すると言っていた「生き物の序列」をこっそり持ち出してくるのかと声を大にして問うことができる。

『肉食の哲学』 ドミニク・レステル

 一部のビーガンは動物を人間の劣位に置き、動物を人間のために利用することを種差別だと批判する。にもかかわらず、動物は食べてはいけないが植物は食べていいといったように、種を差別している。本書にはそのような態度への批判が述べられている。

 本書のもう1つの主張は「動物を食べることは倫理的である」というビーガンとは真逆の意見である。その理屈は次のとおりである。

 地球上にはあらゆる生物が存在し、あらゆる生物の中心には捕食関係が存在しており、命の交換が相互に行われている。ビーガンのように、人と動物の間に線を敷き、人間が地球の生物の1つであることを拒否する行為は、生物の相互関係から外れようとする行為である。これは逆に非倫理的である。他の多くの動物がそうするように、人間も動物を食べ、生態系の只中に身を置くこと、食う・食われるという相互に依存的な関係であることが倫理的態度である。以上が著者レステルの主張である。

 ちなみにレステルはすべての肉食を肯定するわけではない。大量の家畜を狭い檻で飼育し、大量の肉を生産するような工業的畜産(いわゆるCAFO)は批判する。肉を食べる量を抑制し、また特別な機会のみするという儀礼的なものにすべきだと主張している。レステルは動物福祉や環境問題には配慮しているのであり、工業的畜産は批判する。そしてレステルの批判の対象は、肉を食べる人を強烈に批判するビーガンである。

 また人間の死後、その肉体が生態系に還元されない火葬についても、すべきではないと主張している。あくまで人間も他の動物と同じように、その肉体が死後、生き物によって分解され、生態系に還元されることが、あるべき姿だとしている。

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『肉食の哲学』への批判

 本書にはいくつか批判が見られた。エッセイという体裁上、仕方がないのかもしれないが、やはり本書の主張には多分に独断的なものや、感情的だと取れる主張が含まれており、細かい主張について反論が見受けられた。たとえば次のようなものである。

人間と動物の間に明らかに存在している非対称的な関係に目を 瞑り、相互性が成り立つと想定していることが 大いに疑わしいし

規範的な食の倫理の再検討1 板井 広明 http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/nenpo/nenpo56/nenpo56_itai.pdf

 また本書は、肉食は倫理的であるという主張の根拠に、カナダのアルゴンキン族の肉食のあり方を挙げているのだが、この事例だけでは説得力が弱いのではないかという批判もあった。

 その他、本書の主眼は、ベジタリアンへの反論というよりは、工業的畜産への反論にあるのではないかとする意見もあった。本書において展開されるベジタリアンへの反論はやや隙きがあるように見えるが、あえてそうしているように見えるからだという。

実のところ著者は、家畜を過度に苦しめ、環境に多大な負荷を与える現行の畜産業に支えられた大量の肉の消費には批判的である。肉食の現状を容認するのでもなければ、ベジタリアンの主張に与するのでもないという著者の微妙な立場と、哲学と動物行動学を専門とする来歴を考えると、本書における粗の見える議論も、果たしてその見かけ通りのものなのか疑いたくなる。

読書人WEB https://dokushojin.com/review.html?id=7650

 このように、本書における細かい主張に対する批判はエッセイという体裁上、仕方がないことだろう。

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『肉食の哲学』の意義

 本書の主眼はどちらかといえば、肉屋に危害を加えたり、肉を食べる人を強い言葉で批判し、人の食生活に過度にケチをつけるような過激なビーガンに対して向けられているように思える。一方で強い言葉でビーガンを批判する態度は、強い言葉で肉食を批判するビーガンの態度と同じである。そのような態度では、ビーガンと肉食の分断を加速させるだけではないかと不安になる。

 それでもレステルの、ビーガンは人間が動物であることを否定する態度や、残酷さを完全に否定しようとする態度への批判は非常に興味深いものである。人間を動物の一種に過ぎないとし、その一員としていきることに倫理を置いたレステルの主張は、一考に値するのではないだろうか。

 人間が持つ動物性への嫌悪や、社会に存在する残酷性の根絶、自身が清廉潔白であろうとする態度は、昨今、ビーガンのみならず、広く社会に存在しているように思える。昨今の感染症対策がその好例ではないか。

 ウイルスは肉眼では見えないが自然界には無数に存在する。昨今のパンデミックでは、多くの国がその目に見えないとらえどころがない存在を根絶しようとした。しかし結果、多くの国でゼロ政策は失敗におわった。現在多くの国はゼロ製作を断念し、ウイルスとの共存を選んだ。

 ゼロ政策の背後には人間は他の動物とは違い、感染症を完全にコントロールできるという考えと、自然界の驚異から完全に逃れた存在でいられるという考え、つまり人間の中に横たわる動物性を克服できるどいう動物性の拒否があったからではないか。もちろんある程度の感染症対策は必須だっただろう。またひとまずゼロを目指したことには一定の意義があったかもしれない。ゼロにすることが不可能と分かったという意味では。

 自然界に無数に存在するウイルスのなかで、ある特定のウイルスだけを人為的にゼロにするという、素人目には非現実的に思える政策によって、普段の生活に大きな支障がでたのもまた事実である。

 レステルが主張するように、人間もあくまで動物である。他の動物や植物、微生物などの他者に依存しなければ生きていけない。その過程で、植物を人間の都合の良いように作り変えたり、動物を殺したり、微生物の働きをコントロールしたりといった人間の身勝手さ、言い換えるなら残酷性からは逃れることはできない。動物を不用意に殺すという残酷な行為はなくすべきだろう。

 しかし生きるためには動物や植物などの生き物の命を頂かなければいけない。これはある意味、残酷ではあるが、この残酷さは排除できるものではない。人間は残酷性をもった存在であることからは逃れられない。この事実を忘れようとするのは危険に思える。

 残酷性のすべてを排除し、私が清廉潔白であると高らかに主張するような人が現れるとしたら、それはそれで恐ろしい。そのような人たちは自分がもっとも倫理的であり、正義であるとし、それ以外の人を容赦なく排除するようになるだろう。

 本書は、一部のビーガンのような、人間から動物性を排除することが倫理的であるという態度を批判し、人間の動物性を受け入れることに倫理性をおいた。多くの反論はあるかもしれないが、何が倫理的なのか、自然とは何かと何度も考えさせられる刺激に満ちた一冊であることは間違いない。

 

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