要約・感想『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見(鯖田豊之著)』|肉中心の食生活と人間中心主義的思想の関連について

 はるか昔から米中心の食生活を送る日本人。そして肉とパンを食の中心に置いてきたヨーロッパ。この大きく異なる食生活の違いが、実は日本人とヨーロッパの人たちとの考え方や価値観に影響を与えている。

 食べるものによって、醸成される思想が変わる。それを解き明かしたのが鯖田豊之の『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』である。

 本書は前述のとおり、日本人とヨーロッパ人の思想の違いを食生活から考える一冊である。1966年代に執筆されたものであり、文中におけるヨーロッパの食生活の描写は、やや古さを感じる部分もあるが、食生活と思想の違いの考察は参考になる。

【要約】肉食・パン食が生み出す人間中心主義と社会意識

 本書の内容を簡単に紹介する。

肉中心の食生活から生まれた人間中心主義

 まず一章ではヨーロッパ人の肉食について説明している。「ヨーロッパ人」というくくりは本書によるものである。このくくり方はかなり大雑把であるが、本書では概ねフランスの食文化について述べていると考えられる。本書が執筆された1966年当時の話であるが、フランス人は日本人よりも遥かに大量の肉を食べるという。しかも血だらけの豚の頭がそのまま食卓にでてくることもあり、そのような豪快な食べ方が一般家庭でも見られたという。それに比べると日本人の肉の食べ方は、ままごと程度に過ぎないのだと。

 日本とヨーロッパで、なぜこのような肉食に対する姿勢の違いが生じたのか。その理由ついて本書では、気候風土の違い言及している。具体的には、ヨーロッパは牧畜に適した風土であり、稲作よりも牧畜をするほうが土地を有効に活用できた。一方で日本は稲作に適した土地であり、牧畜には適していなかった。このような違いが肉食率の違いに現れた。

 日本人よりもはるかに長い肉食の歴史を持つヨーロッパ人であるが、実は動物愛護の側面を持っている。現在ヨーロッパは動物福祉の先進国であるが、本書が書かれた1966年当時も、動物にも快適な生活をさせるべきという考えがあったという。日本人の場合「どうせ食べるのだから、どう扱っても」と考えてしまいがちであるが(現代はそうでもないが、当時はそのくらいの温度感であったという)、ヨーロッパはそうもいかない。最終的に食べるとしても、動物には快適な暮らしをさせるべきであると考えるのである。

 日本よりも群を抜いて肉食率が高い一方で、動物愛護の考えが根強いという、矛盾した価値観がヨーロッパには内在している。

 そしてヨーロッパにおける前述のような生活スタイルから生まれたのが、キリスト教による人間中心主義である。簡単にいえば、人間と動物は決定的に異なる存在であるとし、人間と動物の関係を断絶し、動物は人間に食べられるために存在しているのだという考えである。

 しかしどうして、牧畜が盛んで、動物との距離が近い地域で、動物と人間を完全に区別する思想が根付いたのだろうか。動物と接する機会が多ければ、動物と人間の距離が近くなり、人間と動物を同等に考える思想が根付いても良さそうである。

 この理由について本書では、動物愛護と肉食の矛盾を解決する方法として、人間と動物を明確に分ける思想が生まれたと述べる。

ヨーロッパの高い肉食率を維持するには、どうしても動物愛護と動物と畜を矛盾なく同居させる必要があり、そこから、人間と動物の断絶を極端なまでに強調する、人間中心主義の立場のでてくる

 生きるためには大切な動物の命を奪わなければいけない。大切なものを殺すという、葛藤から解放されるための言い訳として、人間と動物の間に一線を引いた。

 ヨーロッパで根付いた動物と人間を分ける断絶論理から、動物は人間に食べられるために存在するという人間中心主義が醸成された。その思想は「本当の人間」を求める思想に発展する。これは特定のヨーロッパ人のなかでも、特権的な階級の人のみをほんとうの人間として捉え、それ以外を阻害するものであった。

 つまり人間と動物を断絶させる論理が、宗教の違い、人種の違い、身分の違いによって人間を断絶する論理にも発展し、ヨーロッパにおける、聖職者をトップとし、その下に貴族、その下に市民といった、身分社会を生み出したのだと論じている。

 またヨーロッパの教会の荘厳さや、貴族の豪華絢爛な生活スタイルは、このような身分の違いをはっきりさせるために、現れたものである。マルクス主義が生まれた背景には、貴族と市民の確固たる断絶があったことが背景にある。

パン食が生み出した社会意識

 また後半では、ヨーロッパに根付いているパン食についても言及している。ヨーロッパでは、米でもなく、麦を炊いて食べるのでもなく、麦を粉にして整形して作るパンが普及した。

 パンは米や麦飯に比べて、食べられる状態になるまでの手数が多い。その一方でパンは、米のように粒状で穀物を接種するよりも、消化吸収が良いという。パンのような粉食がヨーロッパで普及したのは、穀物生産力が高くない土地で、効率的にエネルギーを接種する方法を選んだのではないかと述べる。

 そしてこのパンを食する生活スタイルは、ヨーロッパにおいて社会意識の醸成にも一役買った。

 パンは、原料となる麦の収穫から、食卓に並ぶまでの多くの工程が存在する。ゆえに農家から家庭に届くまで、製粉業者や製パン業者など多くの業者が経由することになる。その結果、製粉業者や製パン業者といった、農家と商人とは別の食品工業が発展した。

 農家、加工業者、販売者などあらゆる業者の存在と、それらの職業の人々とうまくやっていかなければ生きていけないという社会状況は、ヨーロッパの市民に社会意識を根付かせた。言い換えれば、パン食によって、食品工業が発展し、これにより市民に社会の存在を意識させたのである。

 またパンの原料である小麦を生産するにも社会とのつながり欠かせなかったという。穀物の生産性が低いヨーロッパでは、三圃制を採用せざるをえなかった。三圃制のような複雑な土地利用は、個々の農家がバラバラに行うのではなく、近隣の農家との協力が必要不可欠である。食料を安定的に生産するため、地域住民との協力が欠かせなかった。

 一方で、日本の場合、村落共同体のようなものはあったが、個々の農家の独立性が強かった。ゆえに日本では、「先祖伝来の田畑」といったような、思想が生まれ、先祖を敬う思想が生まれた。ヨーロッパのように地域との協調関係が絶対である場所では、先祖云々よりも、今生きている村の仲間を大切にするような、思想が育まれた。そしてキリスト教の人間中心主義のなかには、過去よりも、このような現在の関係を重視する思想が含まれるという。

 パン食はヨーロッパで強い社会意識を醸成させた。この社会意識の強烈さについて、本書では「他人が自分と同じでないことに我慢できない、一種のおせっかい精神である」と述べている。

 一見、他人に寛容な自由の国というイメージが強いヨーロッパであるが、その歴史は他宗教の排除や人種差別、貴族と市民を断絶するなど、多様を認めない歴史で埋め尽くされている。また現在でも、アメリカやヨーロッパでキリスト教に起因した法律や、政治と宗教の繋がりが残るのも、この名残であるとする。

 以上のように本書は、ヨーロッパの食生活が思想にどのように影響しているかを考察している。ヨーロッパとの比較で、日本の食生活と思想についても考察しており、日本人が歩んできた食生活を考える機会にもなる。

【書評】ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』との関連

 食生活が思想に影響を与えた。そして、どのような食生活を採用するかは、その土地の風土によって決まる。たとえば水が豊富な日本は水田稲作を選んだ。逆に牧畜に適した雑草が自然に生えるヨーロッパでは、牧畜が盛んになった。

 このように食生活は、土地の風土と関連する。土地や風土によって、思想や生活が変わるという指摘は、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』におけるの内容と重なる部分がある。

 『銃・病原菌・鉄』では、科学技術を発展させ、世界中に進出していった国家がある一方で、科学技術を持った国に侵略され、植民地になってしまった国があるのはなぜか、民族ごとの発展度の違いの理由はどこにあるのかといった疑問について、居住環境の違いにあるとしている。つまり、どのような風土の土地に住んでいたかが、征服する側とされる側を分けたと述べている。

 これはまさに本記事で紹介した『肉食の思想』とつながるアイディアである。『銃・病原菌・鉄』が出版されたのは1999年頃である。一方で『肉食の思想』は1966年に初版が出ている。『肉食の思想』は、細かいツッコミどころはたくさんあるが、居住環境の違いが思想や生活に影響するということを、かなり以前から突き詰めていたのである。